しょせん、人の心の問題なのである。
すみません、急いでいるので気をつけて
脇を通らせてもらいます、という気持ちで、
歩いてくれるなら、それはそれでよいのだ。
そして、もし触れでもしたら、そのことについて
全責任を負うので許してください、という覚悟で
歩くのならば、それを徒に禁ずる理由はないのである。
しかしまた、万一エスカレータが
緊急停車した場合の危険性というものも問われている。
つまり、手すりを握ってじっとしていることが、
緊急時の被害を最小限に留める作用があるのである。
その意味では、歩いているということは危険である。
まるで、シートベルトなしで車を走行させているようなものである。
こうして考えると、
やはり基本的に、歩くことはまずいということになる。
ただ、それはそれとして、
道行く人の関係、あるいは心というものが、
成立しなくなってきているがゆえの問題である、
という観は否めない。
街を歩く人の間でも、どうぞお先に、とか、
他人の邪魔をしないように、とか、
そういう心がはたらいているうちは、
それぞれの問題はそれぞれの場で解決される可能性が高かった。
ところが、傍若無人に、
他人を蹴散らしていくような精神が
街に溢れているような時代とあっては、
それが通用しなくなってきてしまったのである。
歩きながらタバコを吸うとか、
傘を斜めにして持つ、甚だしくは横に持ったり振ったりするとか、
そういうことがまかり通るこの「心ない」空気が、
エスカレータ問題にも影響していると言えるはずなのである。
それと、新聞やテレビでこのエスカレータ問題が言われるようになって、
改めて気づくのであるが、
このエスカレータを歩いてよいかどうかという議論の中に、
弱い人の立場が考慮されようとしていないことが、
さらにこの論評自体に「心ない」ものを感じる。
階段だとしんどいような人のためにこそ、
エスカレータはあるのではなかったか。
そういう「弱い」立場の人が使うべきと思われるエスカレータが、
強者により弱者を蹴散らしたら危険を及ぼしたりするような方法で
使われている、ということが、
最大の問題なのであると私は思うのだが、
そういうことは忘れ去られているような論評が、
すでに「心ない」ものであると思わざるをえないのである。
(続く)
すみません、急いでいるので気をつけて
脇を通らせてもらいます、という気持ちで、
歩いてくれるなら、それはそれでよいのだ。
そして、もし触れでもしたら、そのことについて
全責任を負うので許してください、という覚悟で
歩くのならば、それを徒に禁ずる理由はないのである。
しかしまた、万一エスカレータが
緊急停車した場合の危険性というものも問われている。
つまり、手すりを握ってじっとしていることが、
緊急時の被害を最小限に留める作用があるのである。
その意味では、歩いているということは危険である。
まるで、シートベルトなしで車を走行させているようなものである。
こうして考えると、
やはり基本的に、歩くことはまずいということになる。
ただ、それはそれとして、
道行く人の関係、あるいは心というものが、
成立しなくなってきているがゆえの問題である、
という観は否めない。
街を歩く人の間でも、どうぞお先に、とか、
他人の邪魔をしないように、とか、
そういう心がはたらいているうちは、
それぞれの問題はそれぞれの場で解決される可能性が高かった。
ところが、傍若無人に、
他人を蹴散らしていくような精神が
街に溢れているような時代とあっては、
それが通用しなくなってきてしまったのである。
歩きながらタバコを吸うとか、
傘を斜めにして持つ、甚だしくは横に持ったり振ったりするとか、
そういうことがまかり通るこの「心ない」空気が、
エスカレータ問題にも影響していると言えるはずなのである。
それと、新聞やテレビでこのエスカレータ問題が言われるようになって、
改めて気づくのであるが、
このエスカレータを歩いてよいかどうかという議論の中に、
弱い人の立場が考慮されようとしていないことが、
さらにこの論評自体に「心ない」ものを感じる。
階段だとしんどいような人のためにこそ、
エスカレータはあるのではなかったか。
そういう「弱い」立場の人が使うべきと思われるエスカレータが、
強者により弱者を蹴散らしたら危険を及ぼしたりするような方法で
使われている、ということが、
最大の問題なのであると私は思うのだが、
そういうことは忘れ去られているような論評が、
すでに「心ない」ものであると思わざるをえないのである。
(続く)