イースターという名そのものが、
異教の香りがする、と嫌う人もいる。
キリストの復活を祝う、と
素直に言えばいいだけの話だ、と。
クリスマスは、
キリストの礼拝という呼び名であるから、
それはそれでよいとしても、
イースターはいただけない、というのだ。
私も、少し抵抗がある。
もみの木こそクリスマスだ、と言わんばかりの
そんな精神であるかのように思えないこともない。
ただ、今日のこの受難日については、
グッド・フライデーという呼び名があるものの、
あまり広まらないし、
この英語にも歪みがあるようなところがあり、
呼称としてはどうかなとも思える。
十字架の日である。
その十字架すら、アクセサリーの代名詞のようでもあり、
そうじゃなくてなんとも残虐な死刑なのだということが、
イメージとして伝わらないような気配である。
どくろマークでさえ、アクセサリーになるのだ。
十字架くらい、なんということはないのかもしれない。
オカルト趣味は、
健全な嫌悪感を駆逐していく。
思えば思うほど、十字架は酷い。
ローマ市民には決して用いなかった死刑だ。
そして、ユダヤ人は思いつかなかった。
ユダヤの文化では、石打ちであった。
もちろん、それも酷い。
今も中東であるというから、確かに残酷だ。
しかし、十字架はさすがにない。
日本の磔もひどいが、これは見せしめですぐに殺す。
十字架は、自ら苦しんで死を待つものであり、
刺し殺すのは苦しみを短くする手段であったといわれる。
キリストの十字架が、他人事であるままでは、
何の意味も私にもたらさない。
それだけは確かだ。
十字架を思うとき、
それが涙と命に変わるという体験は、
十字架を自分の問題として感じたときだ。
自分は悪くない。
この空気が支配している世の中にあっては、
自分を悪く言うことが体裁だけであるのが一般的である。
そうじゃない。
何を見ても、何をしても、自分が悪いということがつきまとう。
それが根底にある。
十字架は、そこに及ぶものなのだ。
異教の香りがする、と嫌う人もいる。
キリストの復活を祝う、と
素直に言えばいいだけの話だ、と。
クリスマスは、
キリストの礼拝という呼び名であるから、
それはそれでよいとしても、
イースターはいただけない、というのだ。
私も、少し抵抗がある。
もみの木こそクリスマスだ、と言わんばかりの
そんな精神であるかのように思えないこともない。
ただ、今日のこの受難日については、
グッド・フライデーという呼び名があるものの、
あまり広まらないし、
この英語にも歪みがあるようなところがあり、
呼称としてはどうかなとも思える。
十字架の日である。
その十字架すら、アクセサリーの代名詞のようでもあり、
そうじゃなくてなんとも残虐な死刑なのだということが、
イメージとして伝わらないような気配である。
どくろマークでさえ、アクセサリーになるのだ。
十字架くらい、なんということはないのかもしれない。
オカルト趣味は、
健全な嫌悪感を駆逐していく。
思えば思うほど、十字架は酷い。
ローマ市民には決して用いなかった死刑だ。
そして、ユダヤ人は思いつかなかった。
ユダヤの文化では、石打ちであった。
もちろん、それも酷い。
今も中東であるというから、確かに残酷だ。
しかし、十字架はさすがにない。
日本の磔もひどいが、これは見せしめですぐに殺す。
十字架は、自ら苦しんで死を待つものであり、
刺し殺すのは苦しみを短くする手段であったといわれる。
キリストの十字架が、他人事であるままでは、
何の意味も私にもたらさない。
それだけは確かだ。
十字架を思うとき、
それが涙と命に変わるという体験は、
十字架を自分の問題として感じたときだ。
自分は悪くない。
この空気が支配している世の中にあっては、
自分を悪く言うことが体裁だけであるのが一般的である。
そうじゃない。
何を見ても、何をしても、自分が悪いということがつきまとう。
それが根底にある。
十字架は、そこに及ぶものなのだ。