律法学者やパリサイ人は、
イエスにずいぶんとひどく言われる。
弟子たちの教会の時代に入ると
それがぴたりと止むのが不思議だが、
ともかくパリサイ人というのは、
悪名高いエリートたちということになっている。

それにはそれ相応の理由があるし、
イエスの十字架の伏線として
非常に重要な役割を担うグループであったことは間違いない。

彼らは、取税人という当時の立場の人々を
犬畜生のように見下していたし、
羊飼いに至っては、
殆ど人間を見るような目では見ていなかったとされる。
律法を守れないからだ。
神の前に、救われない者どもとして置かれている、
そう思っていたからだ。
その反対に、自分たちは律法の規定を守り、
忍耐しつつ立派に生きているという自負もあった。

だが、その羊飼いらこそが、
律法を守るための羊を提供していたのではなかったか。
取税人のいるために、
ローマはことさらにユダヤを脅かさず、
ローマの平和をもたらしていたのではなかったか。

パリサイ人らは、
自分たちが取税人や羊飼いらのお陰で
安心して暮らせているという背景をものともせず、
ただ律法を守れない者どもが、と彼らを見下していた。
もしそうだとすれば、やはりイエスの怒りはその通りだ。

彼らの正義は、
それがどんな犠牲により支えられているか、を
忘れて見えなくなってしまった正義だった。

原子力発電所の事故は、あってはならないことだった。
だが、そのリスクは当然予想されていたはずだ。
それに異議を唱えることなく、
原子力発電により作られた電気を使い、
その電気で作られた製品を使っていたとすれば、
私はどうしても安易に原発を非難することはできないでいる。

問題は、これからどうするか、でもある。
また、家を追われた人々の生活については、
四年も過ぎている。早急に援助できないかと気を揉んでいる。