中一の殺害事件は防げなかったか。

新聞や報道が問いかける。
重い問いであり、真摯に向かい合いたい。

だが、それを踏まえた上で、
その問いそのものを問う必要があると考える。

先の問いへの答えが先ずある。
防げなかった。

この事件がなければ、
誰もこうした少年の行動について、
問うことがなかったからである。

正確には、「誰も」ではない。
「多くの人が」である。
このような問題に胸を痛め、
あるいは実際に骨身を惜しむことなく
労している方々がいる。
幾多の犠牲を払いながら、
子どもたちのために邁進している人がいる。

しかし、多数の人は、無関心だ。
少年たちがSNSでこうした仲間のつながりをつくり、
エスカレートしていく関係を放置している。
大人たちがまた、
そうしたネット関係に没頭し、あるいはゲームに興じ、
子どもたちにものめりこむことを許している。

大人が夜遊びし、子どもたちの夜遊びに関知しない。
いわゆる「不良」などのレッテルを貼られる子に、
社会が無関心でいる。
その一つの結論が、この事件だったのだ。

もちろん、これは
今回の被害者について何かを言っているのではない。
私たち大人全般がそうだ、というのである。

だから、いくらか良心をもつ大人が、
自分のせいでこの中一生が殺されたのだ、と
いくらか感じているのであり、
それがあの現場の花束にも現れている。

大人自身が悪いという意識を根底に置かない限り、
こうした事件はなくならない。
なくすのは難しいかもしれないが、
問題は少年ではなく、
少年たちを育てた大人全般なのである。
その全般には、私自身ももちろん入っている。