語呂合わせで「耳の日」なのだという。
その「3」も、耳の形に似ていて、
甚だ好都合である。

耳の病気など、医学的なものから
提唱されたと聞いているが、
聴覚についての関心のためにも、と
ろう協会関係などでも催しや企画が多い。

見えていないようだ、というのは、
外から観察して比較的分かりやすいものであるが、
聞こえていないようだ、というのは、
観察では分かりにくい。

まして、そういう人がわりといるのだ、というような
知識や意識がない人々が多いとなると、
よけいに気づかれにくい。
車のクラクションを鳴らしてもびくともしない歩行者を見て、
腹を立てるドライバーは少なくないだろう。

知識や意識は重要である。
「かもしれない」という気持ちは、
自動車学校で第一に教えられる心がけである。
地味に見えるかもしれないが、
これは本当に重要な意識である。

聞こえの問題に限らない。
私たちは「かもしれない」を
いかに蔑ろにしているか、
反省してみれば続々と挙げられることだろう。

その逆に「はずがない」という、
他人に対する思い込みは、数限りない。
しかし、自分に対しては、
「はずがない」は使わない。
自分の行為については「かもしれない」の言い訳が
いくらでもこぼれ落ちてくる。

聞こえない・聞こえづらい人がここにいたらどうか。
見えない・見えづらい人がここにいたらどうか。
ほんのわずかな想像力を、
私たちは育てて然るべきであると、叫びたい。