人を人格として見よ。
道具とするなかれ。
カントの鉄則は、
18世紀に生まれた。
この18世紀というのは、
人類史上、特筆すべき世紀であったと私は考える。
私たちは、それは昔のことだ、と一蹴しがちだが、
私の見解では、この時代の枠組みを
私たちは抜け出しているとは言えないと思う。
電車という、閉鎖された空間は、
否応なく、他人としばしの時間の同居を強いられる。
つまり、育ちや考え方の違う面々と
一定時間、共に暮らさなければならない。
すると、あまりに、
他人を道具以下にしか考えていないという実態を
まざまざと見せつけられることになる。
また、そこに自己のポリシーというものが見られないからには、
多数派に容易になびいていく怖さをも感じる。
金をただ巻き上げられていくだけの
中毒的背景をもつ経済発展こそが、
繁栄であるように錯覚させられているからだ。
「経営哲学」や「組織の哲学」という程度しか
「哲学」という言葉を使えない現状には、
悲観的に過ぎるかもしれないが、
私は危険しか感じ得ない。
人格の概念が見当たらないからである。
道具とするなかれ。
カントの鉄則は、
18世紀に生まれた。
この18世紀というのは、
人類史上、特筆すべき世紀であったと私は考える。
私たちは、それは昔のことだ、と一蹴しがちだが、
私の見解では、この時代の枠組みを
私たちは抜け出しているとは言えないと思う。
電車という、閉鎖された空間は、
否応なく、他人としばしの時間の同居を強いられる。
つまり、育ちや考え方の違う面々と
一定時間、共に暮らさなければならない。
すると、あまりに、
他人を道具以下にしか考えていないという実態を
まざまざと見せつけられることになる。
また、そこに自己のポリシーというものが見られないからには、
多数派に容易になびいていく怖さをも感じる。
金をただ巻き上げられていくだけの
中毒的背景をもつ経済発展こそが、
繁栄であるように錯覚させられているからだ。
「経営哲学」や「組織の哲学」という程度しか
「哲学」という言葉を使えない現状には、
悲観的に過ぎるかもしれないが、
私は危険しか感じ得ない。
人格の概念が見当たらないからである。