日常語として「文章」という語を、
一文のことを言うときにも使うことは分かる。
いわゆる「学校文法」というものがあり、
「学校ではそう教えるけれど」というものが多々あるのだ。
学校の数学では、ゼロは自然数ではないが、
数学者は通例それを自然数として理解する、というふうに、
学校と一般世界とのずれは多少はあるものだ。
だが、「放送大学」というところは、
学校の領域に属するように思っていると、
ただの一文だけのことを取り上げて言うときにも、
しきりに「文章」としか言わない講師がいて、
その都度いちいち引っかかってしまう。
「この文章では他と違い……」と、
一文の特徴について文法的な解説が始まると、
やはり引っかかるのだ。
これはもちろん私にもたくさんあることだろう。
思い込みであるとか、無知であるとかいうことで、
言葉を適切でない形で使っていることは、
ある程度は避けられない。
だが、逆にその誤用が気になってしまった人には、
どうしても引っかかって仕方がないということになろう。
一人一人に配ることを「配付」というが、
どうしても「配布」という当て方が通用している。
それも許容なのかもしれないが、
それでも「ん?」と止まってしまう。
目くじらを立てるというつもりはないのだが、
思考が停止するのは確かだ。
もう気にせずやり過ごすことができるように、
受け流すくらいがいいのかもしれないし、
私の言葉も受け流している方々によって
いちいち噛みつかれるわけではないとすれば、
お互いさま、というのが一番平和なのだろう。
一文のことを言うときにも使うことは分かる。
いわゆる「学校文法」というものがあり、
「学校ではそう教えるけれど」というものが多々あるのだ。
学校の数学では、ゼロは自然数ではないが、
数学者は通例それを自然数として理解する、というふうに、
学校と一般世界とのずれは多少はあるものだ。
だが、「放送大学」というところは、
学校の領域に属するように思っていると、
ただの一文だけのことを取り上げて言うときにも、
しきりに「文章」としか言わない講師がいて、
その都度いちいち引っかかってしまう。
「この文章では他と違い……」と、
一文の特徴について文法的な解説が始まると、
やはり引っかかるのだ。
これはもちろん私にもたくさんあることだろう。
思い込みであるとか、無知であるとかいうことで、
言葉を適切でない形で使っていることは、
ある程度は避けられない。
だが、逆にその誤用が気になってしまった人には、
どうしても引っかかって仕方がないということになろう。
一人一人に配ることを「配付」というが、
どうしても「配布」という当て方が通用している。
それも許容なのかもしれないが、
それでも「ん?」と止まってしまう。
目くじらを立てるというつもりはないのだが、
思考が停止するのは確かだ。
もう気にせずやり過ごすことができるように、
受け流すくらいがいいのかもしれないし、
私の言葉も受け流している方々によって
いちいち噛みつかれるわけではないとすれば、
お互いさま、というのが一番平和なのだろう。