新聞社説は、
こぞって「表現の自由」という言葉を掲げた。

フランス週刊紙の銃撃事件を受けて、
社説が一斉に声を挙げた。
言論の主体である新聞社にとり、この問題は見逃せない。
なにせ、出版事業の襲撃なのであるから。

朝日新聞襲撃事件を知る人も少なくなったが、
未解決でいる上に、
いつまた起こるとも限らない最近の風潮である。
同じ新聞事業社が煽るような風さえ吹いている。

もとより、暴力的手段について、
社説の論評には全面的に賛成である。
だが、両手を挙げることが、できない気分である。

もちろん、このたびの場合がどうだか、
私は情報を持たない。
フランス週刊誌について、ということを離れて、
いくらか一般的な提案であることをお許し戴きたい。

たとえば、
Aが言葉でBの嫌がることを浴びせ続けた末、
BがAを殴ったら、
表面上はBの暴力事件にほかならないが、
Bが悪くAのしたことは自由が保証される、と言えるだろうか。

言葉もまた、暴力をなしうると言ってはいけないだろうか。

ヘイトスピーチはいけない、という声も強いが、
ヘイトスピーチを表現の自由だ、と開き直ることを
私たちは認めるべきだろうか。

いったい、どこからがヘイトスピーチで、
どこまでが表現の自由なのだろうか。

(続く)