ヨセフとマリヤの立場はどうだったか。
「身重の許婚」とも記されている。
今でこそ、この言い方は抵抗がないかもしれないが、
実に由々しき表現なのではないか。
社会的に認められない、とんでもない事態だとすれば、
まことに二人は、「居場所がなかった」のではないか。

ベツレヘムに来ていたという。
よそ者である。
だとしてもまた、「居場所がなかった」のではないか。

私たちの社会でも、居場所のない人がいる。
ホームをなくした人がそう感じているかもしれない。
子どもの遊び場がない、と言えるかもしれない。
いじめに遭い、それでも居場所のない
学校に行かなければならない、と辛い子がいるかもしれない。

家庭が安らぎの場などではなく、
自分が余計者と思われている人がいるのではないか。
会社で、いてもいなくてもよいような、
無視されるような立場の人もそう思うのではないか。

実に「居場所のない」人はたくさんいる。
そういう感情は、巷に溢れている。
ヨセフとマリヤもまた、その代表ではなかったか。

キリストは、そうした二人のもとに生まれた。
居場所のない人の心にも、
キリストは今もなお、生まれようとしている。
キリストが生まれたのは過去の一回の出来事だが、
霊的には、今もなお、生まれ続けている。

私の心にキリストが宿った時、
それが私のクリスマスであった。
今まだキリストを信じない人の心にも、
そのクリスマスがやってくるかもしれない。
いや、世界では、日に何万人と、そういう人がいる。
キリストは世界で、日に何万と生まれ続けているのだ。

ヨセフとマリヤを突っぱねた宿屋は、
キリストを迎えない人の心である。
しかし、キリストは家畜とともに生まれた。
低いところに、神が降りたのだと理解される。
それも本当だ。

(続く)