キリストが世に現れた、というのは、
まさにそのような考え方と合致する。
聖書に記述がないとかいって、
クリスマスを否定する教派もある中で、
多くの信徒がこの時期を
それに相応しいと考えて過ごすことには意味がある。

問題は、そのうわべの明るさだけを掠めて、
乗じてバカ騒ぎのネタにする精神である。
せめて、家族のつながりや、
己れを献げて人を「愛する」ことへ
目を向けるとするならいいものの、
欲に心を支配されてクリスマスを称えるというのは、
筆舌尽くしがたい行いであるのではないだろうか。

一定の貯えがあるとか、
毎月スマホ代金が払えるとかいう、
余裕のある生活を送っている人々には、
12月というものは、春の期待を抱ける時期である。
春がくればまた……と想像をめぐらすことができる。

だが、年末を過ごすことさえままならぬ人々もいる。
今日明日を生きるか死ぬかというレベルでもある。
ましてとても新年を祝い、抱負を述べることなどできぬ。
マッチ売りの少女に等しい状況の人がいる。

しかし実に、クリスマスは
その人たちのためにある。
キリストは、そこへ来てくださった。
今もなお、来てくださる。
キリストは命のパンを与えにくる。
食べるパンを届けるのは、私たちの仕事である。
私たちが、陽の当たらぬ苦難の人を思うとき、
そして何か小さなひとつのことをなすときに、
クリスマスは本当の意味をひとつ、真実にする。

そんな12月でありたい。