信じるということは、
そういう営みなしには考えられない。
残念ながら、この営みなしに、「信じた」と言う人もいるのだが、
私から見れば、それは何かが違う。
質的に、全く違うものだと思う。

それはまた、「出合い」の有無である、とも言える。
神と、あるいはキリストと呼んでもよいが、
出合うことがどこかでなければ、
聖書を信じたことにはなりえないと思うのだ。

そうでないと、
自分の代わりにキリストが十字架についた、
などとはとてもじゃないが言えないはずである。

神学校で立派な成績を修め、
聖書を語る職業に就いているからといって、
その体験があるという保証はない。
信徒の側でも、そこだけは目を見張っていなければならない。
でないと、偽りの羊飼いにより、
どこか知らないところに連れて行かれてしまうかもしれないからである。

それはともあれ、
商戦やバカ騒ぎの時期なのではなく、
まして奉仕ならぬ欲望をはらむ政治的活動による名前の連呼でもなく、
声を出すならば、自分を呼んでいる存在に向けるべきであり、
むしろただ静けき声を聴くという時期でありたいものである。