確かに勝つということは目標だ。しかし、
観客は感動を覚えることで満足する。
負けても感動を受けたら、それはそれでよしとするだろう。

複雑な病に冒された大隣投手が今年7月、
一年余りぶりのマウンドで、
8回裏をすべて内野ゴロの三振凡退に抑えただけのマウンドは、
負け試合ではあったものの、希望や感動を与えた。
それが二週間後の勝利投手につながった。

彼の、10月の快投は言うまでもない。
投げられることへの謙虚な姿勢は、
球に魂をのせていたことを誰もが認めた。
竹のようにしなやかに、打たれない投球をした。
球団は、数字には表れない査定をほのめかしているが、
当然のことだ。ファンはそう皆思っているだろう。

組織で動くとき、エラーは確かに痛い。
損失の責任が問われるのも仕方がない。
しかしそのとき、組織が問われる。
組織が無事であるために人を切るのか、
組織を保つために人を育てるのか、どちらだ、と。

聖書は、初期の教会の姿を
その書簡などで描いてくれている。
そこにも同様の原理が働いているように見える。
失敗や損失を数字的に処罰するしかできない組織ではなく、
互いの違いを認め、許し合うチャンスを有している組織には、
いのちがあると言いたいかのようである。

ただ問題は、
その失敗が、命取りになるような場合である。
これは、積極的な行動をさせない力をもっている。
1タラントンを受けたしもべはその罠に陥ったのだが、
私たちとしても、街で見かける「悪」に対して
口を差し挟めなくなってしまった。
子どもに対してさえ、注意すると
親が猛然と抗議してくるような社会風潮となった。
自分に非があることを認めない精神は、
自分が加害者であることを見えなくしてしまっている。

だが、エラーがあろうとも、
果敢に挑む今宮選手のプレイは、
このまま続けていってもらいたい。
三振の数が強打者の勲章だ、という声もあったが、
失策の数も野手の勲章だ、と言い続けてほしい。