同じ現象を前にしても、
人の心は全然別ということがある。
スポーツの試合を見ながら、
ある選手に思い入れをしたり、
自分の人生と重ねたり、
はたまた金銭勘定ばかり考えたりと、
思惑は様々でありうる。

だから、道徳教育の推進という現象にも、
隠れたいろいろな意図があることを覚えるため、
胡散臭さを感じている人が少なくないものと思われる。

ある部分において、正しいと思わせる部分があるとする。
それでそれを肯定する。
その肯定は同時に、その別の部分の危険や悪にも
賛成したと見られてしまい、そちらが支配していく。

こうした構図は、ありがちなことだ。
いい例が、選挙である。
金回りをよくしてくれた人に投票したら、
戦争が始まった、というような図式である。

ある隠し持った意図を実現するために、
それとは違う面ばかり人に見せ、信用を得る。
そして実現する権力を得たら、
隠していた意図を実現するように動き始める。

セールスとはそういうものだ、と言われれば
それも確かだ。
何もわざわざデメリットを前面に出して
ものを売り込む人はいない、というわけだ。

インフォームドコンセントというのは、
いわば、その常識に「ノー」を突きつけたものである。
説明と同意を得て治療にあたるということが
医療の基本に置かれるようになった。

ある意味でそのために、患者の知識や責任が問われ、
人によっては患者として不安を覚えることにもなるが、
同様に、社会的なことについても、
自分で責任をとることへの不安から、
言い換えれば、自由への不安から、
威勢の良いリーダーについておくのがよいだろうと
思考停止してなびいていくことになりかねない。

道徳教育の推進は、
一見尤もらしい善制度のようであるが、
「女は家を守るもの」が日本本来だ、などという
都合のよい切り取り方による誤りを偶像化する行為と、
同じ穴のムジナに化ける可能性も含まれる政策である。
そのことを認識おく必要がある。