直接の引用は差し控えるが、
新約聖書第二コリント8:1-5に、
マケドニア教会の人々の
健気な献金の様子が描かれている。

パウロが、コリント教会という
豊かな経済力のある都会的教会のメンバーに、
内輪もめや自堕落なことをしている場合ではない、と
諭す思いを胸に、献金問題をも告げている。

マケドニヤ教会は、苦難や試練がった。
ひどく貧しい教会であった。
だが、エルサレム教会の窮状を聞いて、
ぜひ、と献げものをしてくれたのだ。

しかも、それをパウロは、
自分自身を神に献げたことだと評している。

苦難の中にある人の気持ちは、
苦難を経験した人がいちばんよく分かる、ともいう。
この夏の豪雨災害の被災地へ、
東日本大震災の被災地から、
さまざまな助けが届けられている。

それを聞くと、
いったい自分は何をしているのだ、と思いたくなる。

被災地は、広島だけではない。
各地で被害が出ている。
福知山のことは、外部では
あまり言われなくなっている。
だが、被害のあった人は、
まだ呆然と毎日を暮らしているのだ。

ニュースは過ぎ去ったかもしれないが、
生活はうやむやのうちに消えていったりはしない。

もちろん、それは震災の人々も同じである。
三年半を経てもなお、
見通しすら立たない、というありさまに、
私たちは慣れっこになってはいけない。