よ福知山の花火事故から一年が過ぎた。
あの昼、現場の横に来て、
今夜いよいよ花火だね、と話していた。
何年ぶりだろう、
この花火の夜まで福知山にいることができたのは。
それで、ようやく見られる、と思い、
その夜、福知山での最後の夜、
高台から眺めようと定番の場所に行くと、
近所の人が大勢集まっっていた。

定刻になっても、花火が上がらない。
おや、時計が狂っているかしら。
誰もが時計を確かめる。
予定通り行かなくなったのかな。
でも、音沙汰がない。

ひさぱんは、何か音を聞いた、
というふうなことを言っていた。
見えないけれど、花火が上がっているのではないか、
そんな話も出てきた。

誰もが想定しなかったことは、
誰かがツィッターか何かで情報を得て分かった。
事故があった、と。

特別な意図で、悪気があって
犯した事故ではない。
だが、「不注意」と呼ぶには
あまりに凄惨な結果を招いた。

そう。この不注意は、
未必の故意と呼ばれてもよいようなものだった。
「まさかそんなことになるとは」とは
やった者の言い訳であるのだが、これは裏を返せば、
「もしそんなことになってもかまわない」という意味になる。
かまうものか、という気持ちがあったからこそ、
そういう言葉や弁明が出てくるのだ。

責任が問われる多くの事故について、
この言い訳が、あまりにもまかり通っている。
「そうなってもかまわない」という気持ちがないとすれば、
必ずや「どうあってもそんなことは起きない」と考えていたはずだ。
それを怠ったときに、「かまわない」と思ったことが指摘されても、
その通りだと言わざるを得ない状況があるはずなのである。

(続く)