もちろん、
その「いのち」は上から来る。
神から注がれる恵みである。
だから、実のところ説教者は、
自分の中から絞り出すような苦労はいらない。
神に任せる心から語られる。
それもまた信仰である。

だが、そういうことでなしに、
ああまた同じか、とか、
とりあえずありきたりのことでも言っておけば、とか、
安易なルーチンを是認するような姿勢であって
よいはずがない。

繰り返すが、
聞く側の中には、
一週間へとへとの体を引きずって、
会堂に座っている人がいる。
そこにいのちの清水をもたらす言葉があるなら、
そこへ集うだけの意味があることになるだろうが、
力も愛もない空疎な言葉が播かれるだけなら、
教会に来ることが苦痛にさえなりかねない。
来る意味がない。

学生たちの中には、
たしかにまともに聞かない者もいるかもしれないが、
ものすごく真摯に耳を傾ける者がいる。
その期待を裏切ってはならない。
教会の説教でもそうなのであるから。

そして、そのように真剣な説教者の語る言葉に対して、
聞く側も真っ向からそれに対さなければならない。
安易に眠ってはならない。
疲れや事情を無視するつもりはないが、
説教者が真剣で、
聞く側も真剣になる、
そこに、霊と知の力は増大する。
正のスパイラルが起こることが容易に予想されるではないか。