よく、福音書には教会の都合で、
イエスに語らせたつもりで教会の考えを書いている、と
評する人がいるが、
だったらこのように、誤解を招くような話をわざわざ
福音書の中のイエスの言葉として載せるだろうか疑わしい。
しかもルカは、ローマ高官に見せるという形式で
福音書と使徒の記録を書いたとされている。
創作するならこうした不利なことを採用はしないだろう。

比喩は、その尽くが事態に適応しているわけではない。
だからまた、解釈の余地もあるのであって、
どこに重きを置くかにより、理解が異なることになる。
ただし、福音書には文脈がある場合があり、
ルカはこの前後で、金を第一とすることについて
警告を発している、ということを蔑ろにしてはならない。

この直後、金の好きなパリサイ人が
これを聞いて嘲笑っていた、とある。
イエスはそれを諫め、
自分で自分を正しいとすることは愚かだと告げ、
金持ちの家の前でのたれ死んだラザロが死後に祝福され、
その金持ちはままならぬ事態になる、という話を続ける。

この世の金は、不正にまみれた、とはっきり書いてある。
そのような金を第一原理とする生き方から
解放されたこのしもべのあり方に、
主人は、つまり当然これは神のことだが、
見どころがある、と思っているのではなかろうか。

社会的に、金銭のルールを守らないのは不誠実である。
しかし、神との問題においては、
金を第一とすることについてはきっと戒められている。
神こそが第一だよ、と言いたくなるものだろうが、
その辺りの思い違いや罠は、
私たち人の身に覚えがないところでありうる。

私たちの行動原理は、
いつでもちらりとまず金のことを考えてしまうところにある。
そこから精神がまことの意味で解放されるのは、
そんなに簡単なことではない。
それでいて、簡単なことでもある。
この辺りの逆説がまた、聖書の聖書らしい所以でもある。