「律法」というと、
イスラエルのいわば法律のことなのだが、
「法律」をひっくり返しただけの言葉であると
思われることがあるかもしれない。
「左右」も「右左」も
読み方くらいしか違わないように見えるからだ。
だが、トーラーとしての元来の意義は、
漢語にしたときの「律法」からくるイメージとは
どこか違うようにも思われる。
ユダヤ教の方々には叱られるのだが、
キリスト教世界で「旧約世界」と呼ぶものの最初の五巻は
「モーセ五書」と呼ばれるが、
これがいわゆる「律法」として、
ユダヤ教の根幹をなすものとされている。
子どもたちは親に教えこまれる。
その律法にあるとおりに、
立つに座るに子に語られ口ずさみ、
繰り返し称えさせられるのだ。
しかしその五書は、実際に見ると、
決して法律の文章とはなっていない。
創世記という、いわば物語だけの書がまずある。
出エジプト記には法規定も入ってくるが、
前半はやはり物語である。
その後もモーセからヨシュアに政権が渡されるまでの
イスラエルの民の歩みが数多く記されており、
法的な文面もあるものの、
その他の部分もずいぶんとある。
つまりは、「律法」というのは、
イスラエル民族のアイデンティティのための
背景が記録されているものである。
そもそもイスラエルとは何であったのか。
その中に、法規定が重要な位置を占めているのは間違いないが、
それだけではない。
何故に法があるのか。
法の意味は何であるのか。
あらゆる背景知識がそこに網羅されており、
イスラエルのテキストとなっているのだ。
さて、今日は憲法記念日。
日本国憲法の特に第9条をノーベル平和賞に推す運動がある。
これが正式にエントリーされている。
しかし、憲法なるものがノーベル平和賞の対象になることはないので、
対象は日本国民だという。
なるほど、理に適っている。
まさにこれは、平和的な運動であろう。
憲法第9条について
政治的に論ずるつもりは私にはないし、知識もない。
だがそれ自身に矛盾しない形で今回申請したということについては、
コロンブスの卵よろしく、
そういう手があったのか、と感心する。
どうしてもこの第9条を消滅させたい新聞社は、
慌ててアンチのキャンペーンを始めた。
自分の理想とする憲法を掲げ、それを制定せよと宣伝し始めたのだ。
結局、
こうした精神の働きが、
自分だけの正義感で国民を死へと差し向けたという歴史を、
今の日本国憲法は踏まえているという点を、
私たちは学び直す必要があるのではないだろうか。
イスラエルのいわば法律のことなのだが、
「法律」をひっくり返しただけの言葉であると
思われることがあるかもしれない。
「左右」も「右左」も
読み方くらいしか違わないように見えるからだ。
だが、トーラーとしての元来の意義は、
漢語にしたときの「律法」からくるイメージとは
どこか違うようにも思われる。
ユダヤ教の方々には叱られるのだが、
キリスト教世界で「旧約世界」と呼ぶものの最初の五巻は
「モーセ五書」と呼ばれるが、
これがいわゆる「律法」として、
ユダヤ教の根幹をなすものとされている。
子どもたちは親に教えこまれる。
その律法にあるとおりに、
立つに座るに子に語られ口ずさみ、
繰り返し称えさせられるのだ。
しかしその五書は、実際に見ると、
決して法律の文章とはなっていない。
創世記という、いわば物語だけの書がまずある。
出エジプト記には法規定も入ってくるが、
前半はやはり物語である。
その後もモーセからヨシュアに政権が渡されるまでの
イスラエルの民の歩みが数多く記されており、
法的な文面もあるものの、
その他の部分もずいぶんとある。
つまりは、「律法」というのは、
イスラエル民族のアイデンティティのための
背景が記録されているものである。
そもそもイスラエルとは何であったのか。
その中に、法規定が重要な位置を占めているのは間違いないが、
それだけではない。
何故に法があるのか。
法の意味は何であるのか。
あらゆる背景知識がそこに網羅されており、
イスラエルのテキストとなっているのだ。
さて、今日は憲法記念日。
日本国憲法の特に第9条をノーベル平和賞に推す運動がある。
これが正式にエントリーされている。
しかし、憲法なるものがノーベル平和賞の対象になることはないので、
対象は日本国民だという。
なるほど、理に適っている。
まさにこれは、平和的な運動であろう。
憲法第9条について
政治的に論ずるつもりは私にはないし、知識もない。
だがそれ自身に矛盾しない形で今回申請したということについては、
コロンブスの卵よろしく、
そういう手があったのか、と感心する。
どうしてもこの第9条を消滅させたい新聞社は、
慌ててアンチのキャンペーンを始めた。
自分の理想とする憲法を掲げ、それを制定せよと宣伝し始めたのだ。
結局、
こうした精神の働きが、
自分だけの正義感で国民を死へと差し向けたという歴史を、
今の日本国憲法は踏まえているという点を、
私たちは学び直す必要があるのではないだろうか。