ともあれ、私は相手の非を付いて
自分の義を立てるような真似はするつもりはなかった。
それで、この出来事はデジャヴのように、
とこかで経験があるぞ、というふうに感じていたのだった。

JRの車内アナウンスは正しい。
どうであれ、それは確かに正しく、真実だ。
かけこみ乗車が危険であり、ダイヤを乱すのは本当だ。
だが、その正しさが、
どこか自己満足のようなフレーズであるとすれば、
これはまさにファリサイ派や律法学者の正しさではないか、
そんなふうに思えたのである。

彼らは自分の正しさを誇りに思っていた。
事実、彼らは律法を守っていたのだ。
そして、守れない庶民を見下したように見受けられる。

どうして彼らは律法が守れないのか。
生活の故でもある。守りたくてもできないことがある。
知的理解の違いによるのかもしれない。

庶民はその意味で、「正しく」はなかった。
それを「正しい」生活のゆとりのある立場の面々が、
おまえたちは間違っている、だらしない、と
非難したのだった。

JRを批判しているのではない。
このかけこみ乗車の出来事により、
私は気付かされたのだ。
どうしてイエスがムキになってまでも
ファリサイ派と取っ組み合いのような真似をしたのか。
ひとりよがりの「正しさ」は人を傷つけるばかりなのだ。
そして自分は正しいことをしている、と思い込むばかりで、
能天気な考え方をしていることにさえ気づかないのだ。