しかし、ひとつの教会の内部で、
自分が見えない人が強弁をまくしたて、
ひとりよがりの正義を絶対として昂奮し、
他の人の発言を制する、しかも
相手を制する理由を自らが反している、ということにさえ
気づかないようなありさまであったりすると、
愛のある他の教会員は、ただ悲しくなるばかりである。

自分が見えなくなるというこういう事態は、
その人が聖書をそもそも理解していないのに、
自分の理解する聖書だけが正しい、という場合にも起こる。
また、
医学的な病気の始まりという場合もあるという。
数年後、その人の精神に明らかな兆候が見られるようになる、
その懸念があるというのだ。
早期に気づいて対策を立てればまだ緩和される症状が、
この頑固で強圧的なまま放置されると、
症状が現れたときに重症化すると説明されている。

そのときに、
ああ、あのときからもう始まっていたのだ、と
これまた、愛ある周囲の人々は
悲しい顔をすることになるかもしれない。

あらゆる福音書の記述に反している、という
自分の行為にも気づかないでいるという場合、
誰が猫の首に鈴を付けるか、という問題もある。

様々な賜物をもつ人があつまる教会である。
福音を理解し、愛の霊を有する人々が、
一律に何かを、というよりも、
それぞれの中の何かよいものが役立てられれば、
どれかの鍵で扉は開くだろうと思う。