何かの論理というのは、
結局
自分を正しいと主張するために組まれる。
 
ディベートの訓練は、
任意の結論が割り当てられ、
それを弁明することを学習させるというが、
まさにそういう具合に、
結論のために論理は尽くされるのであって、
論理が通った主張が真理であるという命題は
真ではない。
 
つまり自分の都合のよいことのために
あらゆる説明は用いられるのだ。
「これが正しいから」と
これまた正義の味方になりたい人間の本能が
多数同調することによって、
民主主義はただの多数決による
暴力と破滅のシナリオを突き進むことにすら
なりかねない。
 
いくら意図がはっきりしているにしても、
もはや止めることのできない事態が起こりうることは、
前世紀の歴史が証拠立てているのだが、
それさえも
なんだかんだと言って正当化の理由にすらする。