ドラッカーを、聖書に換えることはできない。
だが、教会員としても(たぶん)誠実に過ごし、
メガチャーチの指導者にもアドバイスしたらしいし、
耳を傾ける価値がない、と
知らない者が断ずるのはどうだろうかという気がする。
 
本を開いてみると分かると思うが、
そんなに理論は金にまみれたものではない。
自己実現というと語弊があるが、
人を活かす方角を向いているのは確かだが、
そういう人の集まりとしての教会の生き方として、
新約聖書や書簡は、実は最良の教科書ではない。
 
それらは、事後の記録であり、
いわばいいとこばかり書いてある。
パウロが各教会の問題を書いているが、
その後消滅したような教会の行く末を書いているわけではない。

霞を食べて生きているような錯覚に陥ると、
書簡の道徳的あるいは霊的な諸注意を守れば
教会というものがすべてうまくいくような気になるが、
たぶんそれだけでうまくいくようなものではない。
それがひとつの原理としてはたらくことは確かだが、
実際に運営していく手腕を発揮する人が
陰で、いうなれば汚れ役を果たしている。
 
この世に教会がある以上、
この世で学ぶこともあるにはあるのだ。
聖書が書かれたときにさえ、
この世の知恵を背景に書かれてある部分がきっとある。
でなければ、ローマの役人に媚びたようなルカの著書が
聖書に二つも入れられるはずがない。
 
ドラッカーをひとつのよい学びの素材として
用いるようなことが、教会にはあってよいと思っている。