避難勧告を出さなかった。
伊豆大島はこのたびの被害の時のみならず、
ここ数年、そのような体質であったことが
明らかになった。
現場の事情については知らないわけで、
そのことをとやかく言うつもりはない。
だが、福島の原発にしろ、
発表すればパニックになる、などの配慮なのかどうか
そこは知らないにしても、
こうした警告を発しない体質なり心理なりは、
ただの個人的な性格では片づけられない可能性がある。
この「失敗」の原因を探らなければならない。
この「失敗」を、次に繰り返さないようにするには
どうすればよいか、
そこを考えなければなるまい。
つまりは、
ここで大島の役人を叩くばかりでは、
たんなる第三者の正義気取りを満足させるだけで、
また同じことが繰り返されるのだ。
原発も同じ。
このような状況で、
原発再始動ばかり訴えるほうも
確実にどうかしているわけだが、
「何故」そんなことになったのか、
それを再度起こさないためには
「如何に」すればよいのか、
そこを調べなければならないのではないか。
畑村洋太郎氏による失敗学という命名も
まだ浸透しない。
それは、もちろん完全な手法ではない。
失敗がまだ起こらないことについて防ぐ力はない。
ただ、せめて、失敗が起こってしまったことについては、
誰かの首をすげ替えて終わりなどとするのではなく、
分かりうる限りの原因に目を向けようということは、
試みることに意味はあるのではないか。
どうして、避難勧告に及び腰になるのか。
ひとつには、私たち一般民衆が原因ではないか。
勧告を出して「重大なことが起こらなかったとき」、
私たちは行政を責めるのではないか。
「狼が来る」と、何もわざと言うわけではないが、
まるでわざと言ったかのように、
警告者に文句を言うのだとすれば、
せっかくの警告者も、事なかれに走りがちではないか。
自分たちにも責任がある、との視点は
どの場合も必要である。
大部分の人は、勧告に従うのに、
一部の人がクレームをつけると、
その一部のクレームを避けるために、
もうやらなくなる、というのは、
災害に限らず、辺りにいくらでもあるではないか。
伊豆大島はこのたびの被害の時のみならず、
ここ数年、そのような体質であったことが
明らかになった。
現場の事情については知らないわけで、
そのことをとやかく言うつもりはない。
だが、福島の原発にしろ、
発表すればパニックになる、などの配慮なのかどうか
そこは知らないにしても、
こうした警告を発しない体質なり心理なりは、
ただの個人的な性格では片づけられない可能性がある。
この「失敗」の原因を探らなければならない。
この「失敗」を、次に繰り返さないようにするには
どうすればよいか、
そこを考えなければなるまい。
つまりは、
ここで大島の役人を叩くばかりでは、
たんなる第三者の正義気取りを満足させるだけで、
また同じことが繰り返されるのだ。
原発も同じ。
このような状況で、
原発再始動ばかり訴えるほうも
確実にどうかしているわけだが、
「何故」そんなことになったのか、
それを再度起こさないためには
「如何に」すればよいのか、
そこを調べなければならないのではないか。
畑村洋太郎氏による失敗学という命名も
まだ浸透しない。
それは、もちろん完全な手法ではない。
失敗がまだ起こらないことについて防ぐ力はない。
ただ、せめて、失敗が起こってしまったことについては、
誰かの首をすげ替えて終わりなどとするのではなく、
分かりうる限りの原因に目を向けようということは、
試みることに意味はあるのではないか。
どうして、避難勧告に及び腰になるのか。
ひとつには、私たち一般民衆が原因ではないか。
勧告を出して「重大なことが起こらなかったとき」、
私たちは行政を責めるのではないか。
「狼が来る」と、何もわざと言うわけではないが、
まるでわざと言ったかのように、
警告者に文句を言うのだとすれば、
せっかくの警告者も、事なかれに走りがちではないか。
自分たちにも責任がある、との視点は
どの場合も必要である。
大部分の人は、勧告に従うのに、
一部の人がクレームをつけると、
その一部のクレームを避けるために、
もうやらなくなる、というのは、
災害に限らず、辺りにいくらでもあるではないか。