「犠牲」という言葉について、
『キリスト教学校が東日本大震災から学ぶこと』という本が
教えてくれたことがある。
「犠牲」という言葉で呼ぶことで、
私たちは、自分の責任を回避し、
いわば棚上げにしてしまっていることに気づかされた。
 
たとえば私が人を殺しておいて、
「彼は犠牲になったのだ」とは言うはずがない。
何かの身代わりになった場合には、
「犠牲」という言葉を使うだろう。
だが、「犠牲」と呼んだ瞬間に、
その死をどこか美しいもの、
どうして死ななければならなかったかについての、
合理的な説明を
自分でしてしまったことになるのだ。
 
同情や共感をしているようで、
実のところ、
自分の心の安定だけを目的としている、
そんなことが、人間にはある。
人の苦難そのものに耳を傾けようとはしないで、
それはこういうことだね、と
こちらで勝手に説明をしてしまう。
こちらの解釈で事を終えようとしてしまう。
 
あげく、
このように考えるのが当然だ、と
もはや相手の思いなどおかまいなく
自分の考え方で事をなし、
それのみが正義なのだ、
それに反するのは異常だ、と
決めつけていくようなことさえする。
 
そういう精神は、
人に犠牲を強いることばかりで、
決して、自分が犠牲になろうとはしないものである。
自分が犠牲になったというだけで、すでに、
キリストは私を、あなたを、超えている。
そうは言えないだろうか。