2020年のオリンピック開催地が
東京に決まったことを、
なんだか素直に喜べなかった。
 
福島などの地域の方々が、
どんな思いでこの知らせを聞くかと思うと、
不愉快な人も少なからずいるような気がしたからだ。
 
東京電力というのだから、
東京の文明を支えるような役割を、
原子力発電所を置かされることで
果たしていた福島の人は、
住まいを失い、財産を棄て、あるいは、
外を歩けず、風評にダメージを受けている。
 
オリンピックよりももっと先に
そういうことをしてほしい、と思う人もまた、
おおぜいいることだろう。
経済効果ばかり計算するようだが、
今自分たちはどう扱われているのか、などと。
 
私は、開催が決まったからには、
それを否定するつもりはない。
そして、そこにどんな意図があり、
どんな狙いや思惑があるかということにも、
さしてこだわらないようにしようと決意した。
 
パウロはたとえば、
自分の思惑でない事態に陥ったとしても、
その結果福音が広まり
神の計画がなされていくというのであれば、
大いに歓迎した人ではないかと思う。
 
このオリンピックも、そうなればよい。
動機がどうであれ、
それを実施した後に、
福島や東北の人々が、また地震で傷ついた人々が、
「オリンピックがあってよかった」と
皆思うことができるようになっていたらいい、と願う。
結果的に、
そうなっているのならば、
神の導きとして歓迎しよう、というのである。
 
外で遊べない地域の子どもたちが、
スポーツって素晴らしい、と思え、
はつらつと体を動かせるようになるのだとしたら、
それもいいではないか。
住まいも金もある人々が集まる会場ではなく、
そうした虐げられた人や子どもが
集まる競技会場であってほしいと強く願う。
 
だがもしも、
そういうふうにならなかったとしたら、
このお祭りにただ浮かれる仲間には
決して入るまい、と思った。