関東大震災はもう歴史の中の出来事のようだ。
体験者は稀有となりつつある。
しかし、大正末期のこの震災どころではない。
そもそも先の戦争でさえ、
体験者は少なくなってきている。
 
いや、高齢化社会だ、と言えばそうなのだが、
従軍した人を捜すと、年齢層が
このくらいにもなるのか、と驚くことになる。
 
戦地での体験を語る人が少ない。
語りたくない人も当然いる。
だのに、まるで戦地を見てきたかのように、
「あの戦争では実は○○だった」と
戦後生まれの者が叫ぶことがある。
語りたくない人は、
これに文句を言うこともしない。
だからまるで、その「○○」が
真実であるかのような印象を与えてしまう。
おそらく、そこまでが計算されているのだろうと思う。
 
キリストに出会った体験のない者が
「神学」なるものを学び、
牧師になることができる制度が世の中にある。
外面はそれでよさげなものだが、
説教を聞けば、ほんとうのところが分かることがある。
語る言葉にいのちがないのである。
ただ、そうだと感じることのできるのは、
キリストに出会ったことのある人だけである。
本物を知る人は偽物が分かる、という意味であって、
本物を知らない人は偽物をはじき出せないのである。
 
かといって、
戦地に赴いた人が、
戦争の全体を把握しているというのもおかしい。
知っているのは、自分の身の回りの出来事だ。
クリスチャンも、キリストに出会いはしたが、
キリストのすべてを知り尽くしているわけではない。
そのみこころは私たちが全貌を知ることができないほど、
高く、広く、深い。
 
大震災のあと、
よくぞ復興したものだと思う。
だがしかし、戦後もまた、復興したのだ。
懸命に人々が立て直した社会であった。
今、東北の地を放置しているのは、また、
放置せざるをえないようにしているのは、
いったい何ものなのだろう。