そんなにまでして方言を守る必要があるのか、と
お思いの方もいることだろうと思う。
地域に根ざす言葉は、
その人の居場所を安定させる。
スマホなりタブレットなり、
電車の中での化粧なり、
自分の居場所があたかもないかのように
振る舞っている輩がいかに増殖しているか、
すでに皆さまがお気づきのことである。
酒飲み運転のような「無責任」なことができるのも、
自分の居場所が実はないからなのだ。
そこに家族がいて自分が父親という居場所をもっている
その現場で無責任なことができるだろうか。
また、方言は、
ものの考え方や感じ方が
多様であることを証明する。
思想を伝えるのに、言語がひとつしかなかったら、
思考の溝もひとつに決まり、
すべての水が同じ溝を流れることになる。
不完全な人間の思想が、
ひとつに集中してしまうのは恐ろしいということを、
私たちは歴史から学んだはずではなかったか。
世界的にも、
言語の数は激減している。
あるいは、消えゆく運命にあるといわれる。
これは、メディアの発達に関係するとも考えられている。
世界が情報の網でつながるとき、
必然的に、メディアとしての言語は、
共通のものに変じていく。
ほかにも、潰されていく民族があることも、
悲しいが事実だろう。
そもそも、「方言」という規定が、
その危うさを包含している。
それは中央の共通語を前提としている。
しかし元来、すべての言語が方言であったはずだ。
つまり、これは「方言」と呼ぶべきではなく、
各地における言語のことであったのだ。
「方言」という呼称が
当たり前のように定着したとき、
これの運命は、決まっていたのかもしれない。
方言を出すのが憚られ、
忌まわしいもののようにさえ思わせたとき、
子どもたちへと受け継がれる可能性が
ぐっと狭まった。
そして人の動きの混じり合うことはともかく、
情報が瞬時に飛び交うようになったとき、
必然的にそれは薄められ、
拡散のうちに消えていくエントロピーの法則は、
ここでも成立するのだった。
お思いの方もいることだろうと思う。
地域に根ざす言葉は、
その人の居場所を安定させる。
スマホなりタブレットなり、
電車の中での化粧なり、
自分の居場所があたかもないかのように
振る舞っている輩がいかに増殖しているか、
すでに皆さまがお気づきのことである。
酒飲み運転のような「無責任」なことができるのも、
自分の居場所が実はないからなのだ。
そこに家族がいて自分が父親という居場所をもっている
その現場で無責任なことができるだろうか。
また、方言は、
ものの考え方や感じ方が
多様であることを証明する。
思想を伝えるのに、言語がひとつしかなかったら、
思考の溝もひとつに決まり、
すべての水が同じ溝を流れることになる。
不完全な人間の思想が、
ひとつに集中してしまうのは恐ろしいということを、
私たちは歴史から学んだはずではなかったか。
世界的にも、
言語の数は激減している。
あるいは、消えゆく運命にあるといわれる。
これは、メディアの発達に関係するとも考えられている。
世界が情報の網でつながるとき、
必然的に、メディアとしての言語は、
共通のものに変じていく。
ほかにも、潰されていく民族があることも、
悲しいが事実だろう。
そもそも、「方言」という規定が、
その危うさを包含している。
それは中央の共通語を前提としている。
しかし元来、すべての言語が方言であったはずだ。
つまり、これは「方言」と呼ぶべきではなく、
各地における言語のことであったのだ。
「方言」という呼称が
当たり前のように定着したとき、
これの運命は、決まっていたのかもしれない。
方言を出すのが憚られ、
忌まわしいもののようにさえ思わせたとき、
子どもたちへと受け継がれる可能性が
ぐっと狭まった。
そして人の動きの混じり合うことはともかく、
情報が瞬時に飛び交うようになったとき、
必然的にそれは薄められ、
拡散のうちに消えていくエントロピーの法則は、
ここでも成立するのだった。