パロディとは何か。
そんな定義ができるものではないだろうが、
原作をよく知った上で、
それを、たいていはおもしろおかしく、
模倣したものであろう。
 
そこには皮肉めいた気持ちや、
諷刺した様子が混じることがよくあり、
そこが笑いを誘うことになる。
 
中には、揶揄とも言えるものもあるだろう。
悪意から、わざと原作の欠点を強調することも可能である。
 
しかし、いずれにしても、
原作をよく知らないことには、
できない芸当である。
 
その意味で、「ものまね」は、
演じるほうが、原作というかもとの人のことを
よく研究しているのは間違いない。
しかし、「ものまね」を見て笑うほうが、
原作を知っているかというと、そうとは限らない。
 
えてして、今風の「ものまね」でウケるというのは、
元の歌や芸人を知らない若い人が笑っており、
そもそも元を知らないのに、
ものまね芸人のしぐさがオーバーでおかしい、ということで
ゲラゲラ笑っているという場合が少なくない。
それで元の歌手が不愉快になるかというと、
逆にそのことで知名度が上がり、
若い人に知られるようになり、
自分の仕事が増えるということになると、
むしろ歓迎しているというようなケースもある。
こうして、「ものまね」文化が
いずれの人にとっても利となり、繁栄する。
 
「ものまね」とパロディとは同一ではないだろうが、
似た路線であることは間違いない。
 
しかし、宗教的な事柄となると、問題がある。
さすがに現代、不敬罪は成り立たないにしても、
礼拝所不敬及び説教等妨害は罪として成立する。
人々が崇敬していることをふざけて笑いの対象にするというのは、
表現の自由のほうで守られているかもしれないが、
むしろ倫理的な側面から問われても仕方がないのではないか。
 
それが、何か対象をそれなりによく知ってのことであればまだしも、
そもそもその宗教についてよく知らないのに、
たんなるイメージや、聞きかじった用語だけで、
物笑いの種にするとなると、逆に
自らの文化的な貧困をさらけ出しているようなものである。
 
だから、キリストを深く知ることもなくパロディにした作品を、
つくるほうもつくるほうだが、
それを見て喜んでいる人々は、
なんと空虚な精神なのだろうと、悲しくなる。
そのギャグを見て、キリスト教を笑いものにし、
自分の分かる範囲で嗤えたら楽しいじゃん、とへらへらしているような、
心の貧しい者たちの中から、
それがむなしいことに気づく人が現れてほしい。
心の貧しい者は、幸いなのであるから。