危険を感じたら、
人間の何らかの感覚器官がそれを察知する。
それは感覚神経により、
中枢にもたらされなければならない。
それを瞬時に判断し、
運動神経を通って
行動を起こさなければならない。
危険を避けるための防御であるか、
危険に抵抗する力であるか、
必要なものは何であるかについては、
そのときにならなければ判断できない。
そして、その防御なり抵抗力なりが、
現実に危険を打ち破るために働き、
通用するものでなければならない。
 
破滅や荒廃に陥らないためには、
誰かが、危険に気づかなければならない。
危険に気づいたとしても、
それをまた誰かに知らせなければならない。
知らせたとしても、その情報が、
行動に移せる組織や人物に渡らなければならず、
そこで的確な判断ができなければならない。
そして、それを行動に移す命令系統が作動し、また、
現実に行動をもたらすのでなければならない。
 
ひとつの個体においては、
参与する細胞は、すべてその親たる母胎の個体に依存しているから、
その個体の利益を第一に考え、働きが集中的になされることだろう。
だが、烏合の衆のような人間であったらどうか。
行動に辿り着き、現実に防ぐ行動がとれるためには、
なんとハードルの高いことか。
条件が厳しいことか。
 
なんか、おかしい。
そのように思っても、
指摘するのを憚ってしまうのは、人の常だ。
そして、取り返しのつかない事態が起こって初めて、
あれはいけなかったとか、
実は気づいていたとか、
いまさら言っても何の益にもならない自己弁護が、
やたらと飛び交うことになる。
 
なかなか人類は、ひとつの個体にはなれないようだ。
危険を察知する者がどれほどいても、
なかなかそれをくいとめる動きにつながらない。
 
危険を放置していてよいはずはないのに、
それしかできない。
これこそ、悲劇だ。
坑内で人に先立つカナリアの籠、
それを信頼するという、命を守るための重大事項も、
うるさい音の中で、かき消されてしまいがちである。