そこで、社説を見比べていくと、
その新聞社の狙いのようなものが、見えてくることがある。
批判的精神を促す社説の新聞は、
かつての知識人たちには好評だったが、
自分で考えてご覧と言われても迷惑な大衆からすれば、
無責任なように見えるものであり、
逆に、ごり押しで真理はこれでしかない、と
繰り返し言い続けている社説のほうが
理解のためのエネルギーが少なく、
なんとなく頼りがいがあるように見えて、
それを読み続けてもうそれだけが真理だ、と
すがっていくことがはるかに楽であるということになる。
何が言いたいか。
えてして、そういう新聞は、
宗教を危険視したり、宗教を困ったものだと論評しているが、
やっていることは、その新聞も、
宗教であるか、あるいは、
宗教の危険な作用を効果的に自ら利用しているか、
そういうところではないか、ということが言いたいのだ。
自分が、そういう洗脳に陥っていないかどうか、
テストしてみよう。
ネットで、いろいろな新聞社の社説を読んでいく。
自分の考えにいちばんしっくりくる社説をひとつ選ぶ。
ベスト3の順位をつけてもいい。
これを続けていくとき、偏りが見られるだろうと思う。
実のところ、新聞社の社説執筆者の文章の「腕」もあるから、
巧さ加減もその評価に入ってくるかもしれないが、
二つの立場のうちの一つだけしか真理がない、と言い切る文章を
自分が好んでいることがはっきりしてきたら、
もしかすると自分は洗脳されていないか、と疑ってみるとよい。
いや、まだ疑える場合は救いようがあるかもしれない。
いつの間にか「この新聞社がいつも一番正しい」と
他を寄せ付けなくなってきていたとしたら、
もはやこのテストにさえも興味がなくなるであろう。
そのようにして、
悪い意味での宗教にはまってしまっているのであり、
そのことに気づこうともしないかもしれないのである。
その新聞社の狙いのようなものが、見えてくることがある。
批判的精神を促す社説の新聞は、
かつての知識人たちには好評だったが、
自分で考えてご覧と言われても迷惑な大衆からすれば、
無責任なように見えるものであり、
逆に、ごり押しで真理はこれでしかない、と
繰り返し言い続けている社説のほうが
理解のためのエネルギーが少なく、
なんとなく頼りがいがあるように見えて、
それを読み続けてもうそれだけが真理だ、と
すがっていくことがはるかに楽であるということになる。
何が言いたいか。
えてして、そういう新聞は、
宗教を危険視したり、宗教を困ったものだと論評しているが、
やっていることは、その新聞も、
宗教であるか、あるいは、
宗教の危険な作用を効果的に自ら利用しているか、
そういうところではないか、ということが言いたいのだ。
自分が、そういう洗脳に陥っていないかどうか、
テストしてみよう。
ネットで、いろいろな新聞社の社説を読んでいく。
自分の考えにいちばんしっくりくる社説をひとつ選ぶ。
ベスト3の順位をつけてもいい。
これを続けていくとき、偏りが見られるだろうと思う。
実のところ、新聞社の社説執筆者の文章の「腕」もあるから、
巧さ加減もその評価に入ってくるかもしれないが、
二つの立場のうちの一つだけしか真理がない、と言い切る文章を
自分が好んでいることがはっきりしてきたら、
もしかすると自分は洗脳されていないか、と疑ってみるとよい。
いや、まだ疑える場合は救いようがあるかもしれない。
いつの間にか「この新聞社がいつも一番正しい」と
他を寄せ付けなくなってきていたとしたら、
もはやこのテストにさえも興味がなくなるであろう。
そのようにして、
悪い意味での宗教にはまってしまっているのであり、
そのことに気づこうともしないかもしれないのである。