たとえば、一見、福音のように思われるメッセージがある。
「イエスは、私たちのすべての罪を赦し、
 つくりかえていくためこの世に生まれた」
というのも、それはたしかにそうだ、というふうに読める。
 
そこだけ取ればそうなのだが、少し深く読むと、
ここにあるちょっとしたひっかかる表現は、実は、
この牧師の欠陥から必然的にこぼれたものだと分かってくる。
 
すべての罪が赦される、とは聖書に書かれていない。
文脈上、そうした表現を、他の牧師もとることがあるが、
それは、たくさん罪を覚えても問題がない、という意味である。
そして、概して慎重である。
というのは、悪しき行為としての罪と、
それらの根本にある罪とが、明確に区別されるからである。
 
また、この文では、まるで
イエスが人間の道具であるかのように扱われている。
もちろん、これも、言っていることはある意味その通りなのだが、
神の痛みや切実な愛のようなものを感じさせる表現は、
この周辺には全くない。
まるでゲームのアイテムを出してくれたかのような書きぶりなのだ。
 
いや、たった一文で決めつけてはならない、とお思いかもしれないが、
この文章全体がそういう空気に包まれているのと、
この筆者の他の多くのメッセージを偶々知っているがゆえに、
これはそういうものを表している、と指摘することが、
この場合はできるというわけである。
 
そういうおまえはどうだ、などという点は、
自分で十分承知の上である。
自分が完璧だから他人のことをとやかく言う、
そういうものではないのである。
そもそも牧師というものは、
語ることによって、自分につねに刃が向いていることを
痛いほど知っている。
一言一言、神の言葉を前へ語るたびに、
自分自身が傷ついていく痛みを感じているものである。
 
ところがこの当人は、
自分を悩みからイエスが解放したと思いこんだ。
そして自分が正当化されたのだとやや妄想的に抱き、
あくまでも自分を中心においた感情的なことしか語れない。
神はどう考えているか、を語ることができない。
 
もちろんそれは聞く人すべてに明確に分かるわけではない。
だが、分かる人には、分かる。
説教をするというのは、聖書「から」であるから、
聖書すなわち神の言葉「から」語る以上、
それはどうしても神の思いを語る営みが根本にある。
表に出さないにしても、その根本性に基づいて、
説教壇から語るというのが、礼拝説教である。
 
(続く)