小中学生の国語。
「具体的に書きなさい」という指示が時折ある。
しかし、教室での経験から言うと、
「具体的」の意味を理解している生徒は、
ごく少数である。
教室で尋ねても、殆ど適切な答えが返ってきたことがない。
だまりこくってしまうか、せいぜい、
「くわしく言うこと」という程度である。
対義語との比較ができていない国語力の問題でもあるが、
そもそも問題文の意味が分かっていないということは、
ではどうやってその答えを考えるのだ?
ということにならざるをえない。
このように、
投げかけた問いが
実は問いになっていないということもある。
イスラエルはかつて、
めいめいが自分の目に適うことをやっていた。
士師記が繰り返す記述は、
問いの立てられない人間の姿を表しているとも言える。
また、誰かが問いを出したとしても、
それが問いであることに気がつかない場合もあろう。
聖書において、
神が人間に対して多くの問いを投げかけている。
言えることは、
人間は実は、それが問いであることにさえ、
気づいていないということにある。
あるいは、問いだと認識しても、
その問いの意味を正しく理解していないということにある。
「具体的に書きなさい」という指示が時折ある。
しかし、教室での経験から言うと、
「具体的」の意味を理解している生徒は、
ごく少数である。
教室で尋ねても、殆ど適切な答えが返ってきたことがない。
だまりこくってしまうか、せいぜい、
「くわしく言うこと」という程度である。
対義語との比較ができていない国語力の問題でもあるが、
そもそも問題文の意味が分かっていないということは、
ではどうやってその答えを考えるのだ?
ということにならざるをえない。
このように、
投げかけた問いが
実は問いになっていないということもある。
イスラエルはかつて、
めいめいが自分の目に適うことをやっていた。
士師記が繰り返す記述は、
問いの立てられない人間の姿を表しているとも言える。
また、誰かが問いを出したとしても、
それが問いであることに気がつかない場合もあろう。
聖書において、
神が人間に対して多くの問いを投げかけている。
言えることは、
人間は実は、それが問いであることにさえ、
気づいていないということにある。
あるいは、問いだと認識しても、
その問いの意味を正しく理解していないということにある。