そこには、竈もあった。
土間と呼ばれる、一段低いところに
広い調理場があって、そこでは履物を履いた。
たきつける大きな竈の上に、
黒光りのする大きなお釜が置かれた。
夏目漱石の小説に出て来る風景は、
だから私には非常によく分かった。
事実、猫が暖を求めて灰の中で寝ることがあった。
 
高い段差を上がった居間には、
掘り炬燵があった。
ここも、猫にとり心地よい居場所であったが、
練炭は時に息苦しくなるらしく、
時折這いだしてきては、
深呼吸する猫もいた。
 
そこで産まれた母には、
一人姉がいた。
娘夫婦や孫のため、
さまざま世話を続けていたが、
先週、その生涯を閉じた。
 
電報で弔意を伝えたが、
ご丁寧なお電話を直ちに従姉妹から受けた。
腰の具合がよくないため、
母も現地にまでは行けなかった。
口惜しい思いもあるだろう。
 
今の姿が永遠に続くわけではない。
自分本位な「自分探し」ばかりしているうちに、
その自分なるものが消えてしまう時がくる。
 
そう思い切なくなるとき、
信仰・希望・愛という言葉が、
大きなぬくもりとなって迫ってくるとすれば、
そこには意味があるものなのだろうと
改めて教えられるところである。