「国のため」というと
それが直ちに正義となる。
それに逆らうと、
では国民ではないのか、とくるからだ。
国の庇護を受けておきながら、
国のためにやらないなど許されない、というわけだ。
今の世でクリスチャンは、
概して国や国家というものに対して
拒否反応を抱きやすい。
建国記念日だとか、憲法9条だとか、
あるいは国粋主義への懸念が取り巻いている。
歴史の積み重ねというものがあるから、
一概に過去と比較することはできないが、
明治期のクリスチャンは、
もっと国のためという思いを前面に出していた。
なんとか日本のために、という思いで
福音を伝えようとしていた。
それがエリート主義を呼んだ、などと
後から指摘するのはある意味で簡単だが、
彼らはとにかく、日本のために、と考えていた。
新島襄にしても、内村鑑三にしても、
この思いは間違いなく、強い。
今の世のクリスチャンである私たちは、
国のために、何をしているだろう。
それはまた、「国のため」というスローガンが
如何にいびつに歪んできたか、について
まだ実のところ学習できていないことを意味しないか。
「国のため」にこそ
キリスト教を伝えなければ、と
命を張って生きた先人たちを、
私たちは軽々しく批評しがちである。
だが、キリストは、批評家を求めておられるだろうか。
一タラントを土に隠すような傍観者を、
神は喜ばれなかったのではないだろうか。
日本はどうせ福音化されるようなことはないさ。
そんな諦めや悟りのようなものが、
果たして聖書に似合うのだろうか。
もちろん、国を変えるということよりも、
人を変えることが第一である。
そして、その「人」とはまず以て
自分自身のことでなければならない。
それは承知の上で、敢えて言う。
「国のため」、私たちは
何をしているだろうか。
何ができるだろうか。
それが直ちに正義となる。
それに逆らうと、
では国民ではないのか、とくるからだ。
国の庇護を受けておきながら、
国のためにやらないなど許されない、というわけだ。
今の世でクリスチャンは、
概して国や国家というものに対して
拒否反応を抱きやすい。
建国記念日だとか、憲法9条だとか、
あるいは国粋主義への懸念が取り巻いている。
歴史の積み重ねというものがあるから、
一概に過去と比較することはできないが、
明治期のクリスチャンは、
もっと国のためという思いを前面に出していた。
なんとか日本のために、という思いで
福音を伝えようとしていた。
それがエリート主義を呼んだ、などと
後から指摘するのはある意味で簡単だが、
彼らはとにかく、日本のために、と考えていた。
新島襄にしても、内村鑑三にしても、
この思いは間違いなく、強い。
今の世のクリスチャンである私たちは、
国のために、何をしているだろう。
それはまた、「国のため」というスローガンが
如何にいびつに歪んできたか、について
まだ実のところ学習できていないことを意味しないか。
「国のため」にこそ
キリスト教を伝えなければ、と
命を張って生きた先人たちを、
私たちは軽々しく批評しがちである。
だが、キリストは、批評家を求めておられるだろうか。
一タラントを土に隠すような傍観者を、
神は喜ばれなかったのではないだろうか。
日本はどうせ福音化されるようなことはないさ。
そんな諦めや悟りのようなものが、
果たして聖書に似合うのだろうか。
もちろん、国を変えるということよりも、
人を変えることが第一である。
そして、その「人」とはまず以て
自分自身のことでなければならない。
それは承知の上で、敢えて言う。
「国のため」、私たちは
何をしているだろうか。
何ができるだろうか。