野球のような遊びをしている小学生。
人数が少ないものだから、
打球が転がるだけで、
遠く及ばぬ向こうに行ってしまう。
すると彼らは、その「向こう」にいる別の人に、
「取ってくださーい」とすぐに頼む。
偶々そのときだけかと思ったら、
転がる度にそのように呼びかけていた。
昔は、こんなことはなかった。
転がった球は、
自分たちで拾いに行くのが前提だった。
偶々そこにいた人が拾って返してくれたら、
お礼を大声で言い、頭を下げる。
しかし、拾ってもらえなくても、
それは当然のことだという理解があった。
ところが、今の子は、
自分たちの失策は
そこにいる人が助けて当然だ、と考えているかのようだ。
その証拠に、お礼もあまり言わない。
言っても、一応言う、という具合だ。
頭は、下げない。
人は、助け合うのが当然、という道徳の浸透の故か。
それとも、他人は自分に仕えるために存在する、という思想が
貫いているのだろうか。
親や周囲も、
子どもが困るより先に手を打ってくれて、
万全の保護と対策を構えて、
子どもたちは王様のように安全な中で育てられている。
そんな気位の高さが現れているかのように思われてならない。
それだけ保護されている世界の内部だからこそ、
「いじめ」を訴えられないし、解決できない。
なんだかこの関連は、奥が深そうに思える。
ともかく、
外野を抜けた球は、
自ら走って追いかけるべきだ。
そうやって走らないと、
決して上手くはならないからだ。
人数が少ないものだから、
打球が転がるだけで、
遠く及ばぬ向こうに行ってしまう。
すると彼らは、その「向こう」にいる別の人に、
「取ってくださーい」とすぐに頼む。
偶々そのときだけかと思ったら、
転がる度にそのように呼びかけていた。
昔は、こんなことはなかった。
転がった球は、
自分たちで拾いに行くのが前提だった。
偶々そこにいた人が拾って返してくれたら、
お礼を大声で言い、頭を下げる。
しかし、拾ってもらえなくても、
それは当然のことだという理解があった。
ところが、今の子は、
自分たちの失策は
そこにいる人が助けて当然だ、と考えているかのようだ。
その証拠に、お礼もあまり言わない。
言っても、一応言う、という具合だ。
頭は、下げない。
人は、助け合うのが当然、という道徳の浸透の故か。
それとも、他人は自分に仕えるために存在する、という思想が
貫いているのだろうか。
親や周囲も、
子どもが困るより先に手を打ってくれて、
万全の保護と対策を構えて、
子どもたちは王様のように安全な中で育てられている。
そんな気位の高さが現れているかのように思われてならない。
それだけ保護されている世界の内部だからこそ、
「いじめ」を訴えられないし、解決できない。
なんだかこの関連は、奥が深そうに思える。
ともかく、
外野を抜けた球は、
自ら走って追いかけるべきだ。
そうやって走らないと、
決して上手くはならないからだ。