いじめによる自殺が報道されれば、
各地でいじめが調査され、
いじめは悪だの大合唱が始まる。
それが悪いはずはないのだが、
そのうち波は静まり、
さして問題にされなくなる。
立証されにくかったことについては、
うやむやのうちに終わらされかねない。
いわば、吸い殻のようにもみ消される。
かすかにくすぶる煙があっても、
もうそれは「水に流した」こととされる。
 
今度は体罰だ。
亡くなった子のニュースには心から悼む思いを抱く。
しかしそれがせめて、何かの実を結んでほしいと願う。
だが、「いじめ」のときもそうだった。
そもそも「体罰」とは何か、定義されないままに
感情的で無責任な「コメント」が横行する。
そして当面、「体罰」は悪だという色で報道される。
 
曖昧な定義のままでは、結論など出ない。出せない。
今回も、そもそも「罰」ではないケースが発端である。
たんなる暴力を「体罰」と言ってしまったとき、
それは「受ける側にも責任がある」ことになってしまう。
それならば、電車で携帯電話でうるさく話す人を
殴った場合も「体罰」と呼べそうだ。
 
日本ではかつてそういうとき、「天誅」と叫んだ。
天に代わって成敗してくれる、というわけだ。
「体罰」は、これに「教育」の大義が加わる。
 
そう。軍隊がそうであった。
いくらタテマエの制度が表にあっても、
軍隊のやり方が、学校に生き残っているのだ。
 
学校のこの一種のパワハラ暴力は、
正義の肩書きを自らつけた指導者とその一団とが
どこか密室で続けているものであり、
恐らく全国各地津々浦々で
平然となされ続けてきたことであろう。
今、発覚しないか震え上がっている人々は多数で、
どうやって覆い隠すかの策略が
各地で進められているはずである。
 
(続く)