これは広く深い問題なので、
背景についても、思いつくまま、
可能性のある事柄を挙げてみたいと思う。
若い世代の文章表現の背景にあるものである。
彼らは、文は短いのがいい、と考えている。
すると必然的に、短い文の中に読点は目障りである。
短い文に読点はいらない。
逆に考えると、
一文の中に長い事柄を盛り込みまとめる習慣がない。
思想を組み立てるのは、
しばしば様々な要素を折込ながら言葉を連ねることになるが、
彼らはそうした習慣がなく、また必要も感じていない。
カントやヘーゲルのような思索は、もはやない。
ヴィトゲンシュタインにかっこよさを見る。
断片的な表明をただ置いていくスタイルである。
彼らは、接続詞を嫌がる傾向がある。
接続詞を使うと、文どうしが有機的につながっている必要があり、
それはつまり一文でなくても、いくつかの文がつながって
ひとつの思想を表明しているということになるのだから、
やはりカントやヘーゲルの一歩手前のようなものとなる。
これが苦手なのかもしれない。
自分の思想を伝えるために、
言葉や表現を駆使して相手に説明する、
そういうことを好まない傾向も関係しているかもしれない。
言いっぱなしでいい。議論する気はない。
議論は関係を崩したり、時に自分が弾かれたりしかねない。
それぞれに言いっぱなしにしておいて、
互いにいいねと言い合って、つながっておけばそれでいい。
カラオケルームに集まって、
それぞれが歌っていても真剣に耳を傾けるわけでない、
そんな情景にも似ている。
(続く)
背景についても、思いつくまま、
可能性のある事柄を挙げてみたいと思う。
若い世代の文章表現の背景にあるものである。
彼らは、文は短いのがいい、と考えている。
すると必然的に、短い文の中に読点は目障りである。
短い文に読点はいらない。
逆に考えると、
一文の中に長い事柄を盛り込みまとめる習慣がない。
思想を組み立てるのは、
しばしば様々な要素を折込ながら言葉を連ねることになるが、
彼らはそうした習慣がなく、また必要も感じていない。
カントやヘーゲルのような思索は、もはやない。
ヴィトゲンシュタインにかっこよさを見る。
断片的な表明をただ置いていくスタイルである。
彼らは、接続詞を嫌がる傾向がある。
接続詞を使うと、文どうしが有機的につながっている必要があり、
それはつまり一文でなくても、いくつかの文がつながって
ひとつの思想を表明しているということになるのだから、
やはりカントやヘーゲルの一歩手前のようなものとなる。
これが苦手なのかもしれない。
自分の思想を伝えるために、
言葉や表現を駆使して相手に説明する、
そういうことを好まない傾向も関係しているかもしれない。
言いっぱなしでいい。議論する気はない。
議論は関係を崩したり、時に自分が弾かれたりしかねない。
それぞれに言いっぱなしにしておいて、
互いにいいねと言い合って、つながっておけばそれでいい。
カラオケルームに集まって、
それぞれが歌っていても真剣に耳を傾けるわけでない、
そんな情景にも似ている。
(続く)