小学校の若い先生。
どうにも国語力がない。
いくら新人とはいえ、
一年目を終えようとするころに、
プリントに度重なる間違いが続くとは。
主語と述語が呼応しないのも確かだが、
情報自体の間違いも直らない。
 
文を書き慣れていないことには同情する。
最近、教養ある学生も、
葉書の表書きについてまるで無知であるのを目撃した。
コミュニケーションのルールは、
もはや電子媒体の自動変換の中にしかないのかもしれない。
文字で表せないことを顔文字などで表す、と
本気で考えている者もいるほどだ。
 
さて、その先生のの文章だが、
読点がめったにないことにも気づいていた。
読みにくいのはもちろんだが、
たまに打つと、どうにもちぐはぐな印象であり、
要するに、読点など元来いらないと考えているかのようなのだ。
 
気になって少し検索してみると、
逆に若い世代から奇妙な質問を見かけた。
「どうして中年以上の人は読点をたくさん打つのか」
というのである。
 
そもそも個人差が多く、
読点の打ち方に正解も不正解もないものだが、
さらに年代に明確な断定をしてしまうというのは、
おかしなものだとも言えるが、それ以前に、
この質問は、読点を打たないことが標準だ、
という前提があるような立場を表明しており、
その点が気になった。
 
この若い世代の声は、決して一人だけのものではなさそうだ。
揶揄したいのか、中年以上(そもそもこの言い方自体偏見ものだが)は、
必要でもないところで読点をうちまくり、分かち書きさえしている、
とさえ吠える者もいた。
もちろん、分かち書きなどというのは虚偽も甚だしい。
だがこれも逆に言うと、読点そのものが目障りであること、
あるいは言葉を切ることへの抵抗感を露呈しているように思われる。
 
(続く)