ニュースが多すぎるので、
私たちはともすれば、不感症になる。
また今日も、交通事故で人が死んだ。
実のところ、日本国内だけで
数百人単位で亡くなっているのだが、
殆どは報道もされない。
 
殺人事件だと、少しは、
はらはらするかもしれない。
だがそれも、
自分にそんなことがあったら恐いねぇ、
という程度であるかもしれない。
へたすると、
犯人を推理してみよう、という好奇心だけで
報道の続きを知りたくなる。
その心理に、ワイドショーは生きている。
 
先日、親子心中のニュースがあった。
私も、最近、そんなこともただのニュースとして
聞き流していたようなところがあった。
だが、そのとき私の目に涙が流れた。
胸が苦しくなった。
 
どんな思いで、
子どもの首を絞めたのか。
そしてその風景を見ながら、
自らも……。
 
子どもは何を思っただろう。
何を見ただろう。
 
そんなことが頭の中を駆けめぐった。
悲しくて、悲しくて、
仕方がなかった。
 
心を、ほんの少し、
当事者に重ねてしまったら、
たまらなく悲しく、切なくなってしまうのだ。
 
福音書を見ると、イエスはときおり、
涙を流している。
はらわたがちぎれそうな、という思いが
描かれていることもある。
まさに中国から来た、断腸の思いというところだろうか。
 
神は、
私たちに心を寄せ、時に重ねてくださるのだ。
それほどに、自分は愛されたのだ、と思っている、
「おめでたい」人が、クリスチャンなのだ。
だから、幸せなのだ。
 
決して、クリスチャンとは、優等生でもなければ、
正しい人であるのでもない。
ただ、愛されているということについて、
疑うことのない心でいられるから、
幸せなのであり、だからこそまた、
誰かに心を寄せようとしてしまうのだ。
 
事件となってしまっては、遅いから、
そうなる前に、
そういう追い詰められた人に、
救いの道、逃れの道を、
伝えたいと、切に願う。