年末になると、
正月を迎えるための
買い出しの人でごったがえす街。
今年は、土日であることもあってか、
賑わいがより増していたように感じた。
本当に賑わっていたのかどうかは知らない。
近年、元日営業の店も増え、
ふだんと変わらないままに、
また1日にもごった返す勢いが見られる。
私は毎年のように、
そのことに考察を重ねてきた。
しかしまた、
年神という概念がなくなったことは、
それはそれでよいのかもしれない、とも思う。
他方で、このことが、
旧来の家族や挨拶の形態を
なきものにしようとしているようにも感じる。
とはいえ、多くの産業で
元日は休みをとるといえる。
そのため、物資を売り払う覚悟の年末の賑わいがあるし、
そのとき値が張る作用が働くと同時に
売れ残るべきでないという意味で
その高値からの値引きも見られる。
いや、言いたいことは、つまり、
年末の買い物は
日常の何倍もの出費を伴う、という嘆きだ。
まだ、それでもいいのかもしれない。
そんな金を出す余裕のない被災地の方々。
金があっても見合うものが見当たらない被災地の方々。
何よりも、お金で買えないものを
もっと求めている心が、
依然として空しいままであるのだ。
突如として、恐怖や悲しみが襲う、
フラッシュバックのようなことも度々あるだろう。
いったい、どうすればよいのか、
遠い私たちも知りたくてたまらないのに、
分からないと言えば分からない。
必要な助けのために手を伸ばさなければならない。
カトリックの精神は、
その運動に一途に進んできた側面がある。
だから私は、カトリックに反発など覚えない。
共に祈るものでありたいと願う。
2012年を生きることは、
もう私たちにはできなくなる。
しかし私たちには、乗るべき「今」という舟がある。
丸太乗りのように、たえず歩きながら、
水面に浮く丸太を回しつつ
かろうじて落ちないでいるだけかもしれないが、
なんとか今日を生きている。
年末もまた、
せいぜいのところ一里塚であるに過ぎない。
それでもちょっと、
新たな気持ちにさせてくれるとすれば、
年末もいいものかもしれない。
正月を迎えるための
買い出しの人でごったがえす街。
今年は、土日であることもあってか、
賑わいがより増していたように感じた。
本当に賑わっていたのかどうかは知らない。
近年、元日営業の店も増え、
ふだんと変わらないままに、
また1日にもごった返す勢いが見られる。
私は毎年のように、
そのことに考察を重ねてきた。
しかしまた、
年神という概念がなくなったことは、
それはそれでよいのかもしれない、とも思う。
他方で、このことが、
旧来の家族や挨拶の形態を
なきものにしようとしているようにも感じる。
とはいえ、多くの産業で
元日は休みをとるといえる。
そのため、物資を売り払う覚悟の年末の賑わいがあるし、
そのとき値が張る作用が働くと同時に
売れ残るべきでないという意味で
その高値からの値引きも見られる。
いや、言いたいことは、つまり、
年末の買い物は
日常の何倍もの出費を伴う、という嘆きだ。
まだ、それでもいいのかもしれない。
そんな金を出す余裕のない被災地の方々。
金があっても見合うものが見当たらない被災地の方々。
何よりも、お金で買えないものを
もっと求めている心が、
依然として空しいままであるのだ。
突如として、恐怖や悲しみが襲う、
フラッシュバックのようなことも度々あるだろう。
いったい、どうすればよいのか、
遠い私たちも知りたくてたまらないのに、
分からないと言えば分からない。
必要な助けのために手を伸ばさなければならない。
カトリックの精神は、
その運動に一途に進んできた側面がある。
だから私は、カトリックに反発など覚えない。
共に祈るものでありたいと願う。
2012年を生きることは、
もう私たちにはできなくなる。
しかし私たちには、乗るべき「今」という舟がある。
丸太乗りのように、たえず歩きながら、
水面に浮く丸太を回しつつ
かろうじて落ちないでいるだけかもしれないが、
なんとか今日を生きている。
年末もまた、
せいぜいのところ一里塚であるに過ぎない。
それでもちょっと、
新たな気持ちにさせてくれるとすれば、
年末もいいものかもしれない。