何でもしてよい、
社会的自由概念を
そのように捉えている人がいる。
しかし、
何でもしてよいことと、
何でもしてよいと許されていることとは違う。
これらの差は大きい。
前者は、
なんでしちゃいけないなんて言うんだ、
と噛みつくことがしばしばである。
自分は自分のしたいようにする、
それが何故いけないのだ、というわけだ。
このタイプの勘違いはかなり多い。
というより、私の目には蔓延しているように見える。
してよいように許されている、という自覚があれば、
それが許されていないケースがあることも理解しているし、
何より、許されていることについての感謝がある。
かつては、してはいけないことが多いのが当然だった。
してよいことを数えるほうが早かっただろうと思う。
それが、
近代から現代への自由の実現の歴史は、
その比率を逆転させてきた。
あるいは、昔の特権階級のような自由が
先進国と呼ばれる国家の多数に可能になった。
しかし、それは後者のタイプで受け止めるべきものだった。
少なくとも、そのはずだった。
なぜなら、前者が成立するのは、
せいぜい神でしかないだろうから。
ところが、何を勘違いしたのか、
帝王学を知らない王様が多数生まれ育つようになり、
自分は何でもしてよい、それが当然だ、と
思う者が増えた。
人は、自分を神とするようになった。
そして、そうじゃないんだぜ、と言って
素直な人を騙して自分の奴隷にしようと企む者も、
他方で現れた。
操られ、利用されている奴隷であることに、
気づかないままに、
自分は何でもしてよいなどと勘違いしている輩は、
まるで喜劇である。
しかしその喜劇は、
必ず悲劇に行き着くようになっている。
社会的自由概念を
そのように捉えている人がいる。
しかし、
何でもしてよいことと、
何でもしてよいと許されていることとは違う。
これらの差は大きい。
前者は、
なんでしちゃいけないなんて言うんだ、
と噛みつくことがしばしばである。
自分は自分のしたいようにする、
それが何故いけないのだ、というわけだ。
このタイプの勘違いはかなり多い。
というより、私の目には蔓延しているように見える。
してよいように許されている、という自覚があれば、
それが許されていないケースがあることも理解しているし、
何より、許されていることについての感謝がある。
かつては、してはいけないことが多いのが当然だった。
してよいことを数えるほうが早かっただろうと思う。
それが、
近代から現代への自由の実現の歴史は、
その比率を逆転させてきた。
あるいは、昔の特権階級のような自由が
先進国と呼ばれる国家の多数に可能になった。
しかし、それは後者のタイプで受け止めるべきものだった。
少なくとも、そのはずだった。
なぜなら、前者が成立するのは、
せいぜい神でしかないだろうから。
ところが、何を勘違いしたのか、
帝王学を知らない王様が多数生まれ育つようになり、
自分は何でもしてよい、それが当然だ、と
思う者が増えた。
人は、自分を神とするようになった。
そして、そうじゃないんだぜ、と言って
素直な人を騙して自分の奴隷にしようと企む者も、
他方で現れた。
操られ、利用されている奴隷であることに、
気づかないままに、
自分は何でもしてよいなどと勘違いしている輩は、
まるで喜劇である。
しかしその喜劇は、
必ず悲劇に行き着くようになっている。