たとえば、日本語の訳者が
特定の解釈により原文の意味を狭めていることがあるし、
訳者の理解に合わせるために
余計な言葉を付け加えていることもある。
そうなると、原文の「含み」は読者に伝わらない。
ただ訳者の理解をなぞることしかできない。
 
また、歴史的な背景という時間的な条件と、
中東における常識という空間的な条件について、
あまりにも無知なために
勝手な思い込みをすることが多々あるだろう。
 
さらに、つい読み過ごしてしまう表現もよくある。
ザアカイが、食事を共にしているときに
「立って」主に言ったという場面がある。
しかし、椅子から立ったのではない。
当時の食事は横たわるのが通例である。
そこからわざわざ立ち上がったというのならば、
これは人生の転換の強い意志を示すはずだ。
もちろん、取税人という立場についての背景も含めて、
また群衆にとことん嫌われていたという描写を含めて、
私たちはザアカイを知る必要があることだろう。
 
しかしまた、
私たちはその群衆の一人にすぎないのだ、ということを
とことん抑えておかないと、
私たちは安易にヒーローになりたがる。
 
その人なりの受け止め方は尊重するが、
ほかにもたくさんの受け取り方があるというのも、
聖書がそこらの本とは違う重要な点の一つであろう。