存在と日本語では言う。
二つの漢字はどちらも「ある」ことを意味する。
ハイデガーは『存在と時間』で鮮烈な哲学を示した。
『有と時』という訳もある。
存在という言葉そのものの分析や意味の綴られた本である。
その訳語そのものが、解釈全体に拘わる。
いや、もはやどんな小さな言葉一つを取り上げても、
口に出しづらくなるほど、語源や成り立ちから説き明かしてくる。
 
それはともかく、日本語で「対義語」を考えるとき、
「ある」の反対は普通「ない」であろう。
ところが「ある」は動詞であるが、「ない」は形容詞である。
これでよいのだろうか、とずっと疑問に思っていた。
 
しかしいろいろ調べてみると、
対義語が同じ品詞である必要は、どうやらないらしい。
というより、対義語という設定自体、曖昧なものだ。
「貧しい」の反対は「富む」だから品詞は違うこともある、
という説明があるだろうが、
「富む」が「富んでいる」状態と、
いくらかでも「富むようになる」動きを示す場合があるとすれば、
「貧しくなる」とのつりあいのほうがよいケースもあるし、
「長い」と「短い」ほどの明確さがないのは確かである。
 
おそらく私見では、「ある」と「あらぬ」から、
「ある」と「あらない」に、そして「ある」と「ない」と
変遷してきたのではないかと感じる。
「あらぬ」の時代はさすがに「ぬ」だけではきまりが悪かったのが、
「あらない」になると、冗長に思えたのか、「ない」だけでも使えた。
 
いや、無責任なことは言えないから、
どうぞ信頼なさらないでください。
これは想像なのだから。
 
「梅ちゃん先生」が終わったが、
松岡さんが、「ドーナツの穴はドーナツの一部なのか」
という問いを投げかけて悩んでいた。
あれは追究するとけっこう大きな哲学的な問題となる。
この「ある」と「ない」も、
そこにつながる一つの入口となるのだ。
 
また断片的に考察メモがここに挙げられたらいい。