日本語の変化は、
放送メディアの発達により
大きく展開したと考えてよいだろう。
地域の言葉は、
標準的な言葉に駆逐されるかのようである。
 
博多でも、
もう子どもたちに、博多弁が通じない。
「けん」は使うようだが、
「たい」でさえもう危ない。
 
もちろん、私たち世代でも、
その先輩方から見れば、
実に頼りなく、博多っ子とは違う、と
見られているであろうことはよく分かる。
「しぇんしぇい」と私たちは言わないことからも、
違和感を覚えられることだろう。
 
しかし、方言を「知らない」という事態は、
やはり危惧すべきであろう。
 
違うものがあってこそ、
それぞれを尊重する気持ちが起こる。
皆が同じになったなら、
とたんに人間は、
細かな差別をつけようとし始める。
 
テレビは、
一色に日本を塗りつぶすことに加担している。
しかしまた、
地方放送の充実で、
逆に地方独自のものを強めることも、当然できる。
 
可能性を秘めたツールは、
それをどう使うか、により
天使にも悪魔にもなりうるものなのだ。