パウロは第二コリント10:3でこう記している。
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、
肉に従って戦っているのではない。
聖書の言葉は、
一つの脈絡の中にある。
一部を切り取って「これが聖書だ」と掲げることは
現に慎まなければならない。
この個所も、
パウロが自慢をしているという誤解を解くために、
人の見かけやうわべでなく、
いわば中身を知ってほしいという気持ちで綴っている、
そんなあらましを掴んでおく必要がある。
しかし、そんな場面であっても、
重要な原理に基づいての発言というものはある。
ここにはパウロの「肉」概念の理解が欠かせないが、
その「肉」と関連しながら生きねばならぬ人間も、
「肉」を原理として生きるわけではない、という
原理に従う方向性がはっきりと現れている。
人間、そんなに簡単にきれいになりはしない。
どす黒いものが腹の中にあるものだ。
自分でしたくない悪いことも
いつの間にかやってしまっている。
そしていつしか、自分を正当化する。
仕方がないんだ、これでいいんだ、と。
なんやかんや理由をつけて、
実はこれは正しいのだ、と自分で納得することもある。
これが「肉」だ。
(続く)
わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、
肉に従って戦っているのではない。
聖書の言葉は、
一つの脈絡の中にある。
一部を切り取って「これが聖書だ」と掲げることは
現に慎まなければならない。
この個所も、
パウロが自慢をしているという誤解を解くために、
人の見かけやうわべでなく、
いわば中身を知ってほしいという気持ちで綴っている、
そんなあらましを掴んでおく必要がある。
しかし、そんな場面であっても、
重要な原理に基づいての発言というものはある。
ここにはパウロの「肉」概念の理解が欠かせないが、
その「肉」と関連しながら生きねばならぬ人間も、
「肉」を原理として生きるわけではない、という
原理に従う方向性がはっきりと現れている。
人間、そんなに簡単にきれいになりはしない。
どす黒いものが腹の中にあるものだ。
自分でしたくない悪いことも
いつの間にかやってしまっている。
そしていつしか、自分を正当化する。
仕方がないんだ、これでいいんだ、と。
なんやかんや理由をつけて、
実はこれは正しいのだ、と自分で納得することもある。
これが「肉」だ。
(続く)