梅雨末期の豪雨から、
複数の颱風の影響もあり、
九州は水の被害を受け続けた。
幸い、としか言いようがないが、
私のところは難を免れた。
だが、それもやはり紙一重なのだと思う。
一本の道の向こうとこちらとで、
害が全く違うことがある。
極端に言うと、
その先からがけ崩れで落ちたり、埋まったり。
それはもはや、誰のせいでもない。
それを偶然と呼ぶか、何かの必然と呼ぶのか。
また、呼ぶのは誰であるのか。
こうしたことで、様々な立場が生まれる。
第三者が偉そうに、
それは先祖の祟りだ、などと呟くのは、
最高に不遜で厚かましいことであろう。
災害については、
古代も現代も、さして違わない。
もちろん、防災といって、
少しでも害を食い止める努力はある。
が、しょせん人間の力は、
自然に比べてあまりにも小さい。
害をなくすことは、とうていできない。
大地震がこれから起きれば、
何万人の死者が出る、という計算もある。
そんな計算が当たるのかどうかさえ、誰にも分からない。
少なくとも、
危険と分かっていることは、しないことだ。
せめて、「これくらいいいだろう」と甘く見ないことだ。
自分の不注意で害を大きくすることは、ままあることだ。
原発の問題も、要するにそういうことなのだ。
都合良く、自然のせいに全部をすることはできない。
複数の颱風の影響もあり、
九州は水の被害を受け続けた。
幸い、としか言いようがないが、
私のところは難を免れた。
だが、それもやはり紙一重なのだと思う。
一本の道の向こうとこちらとで、
害が全く違うことがある。
極端に言うと、
その先からがけ崩れで落ちたり、埋まったり。
それはもはや、誰のせいでもない。
それを偶然と呼ぶか、何かの必然と呼ぶのか。
また、呼ぶのは誰であるのか。
こうしたことで、様々な立場が生まれる。
第三者が偉そうに、
それは先祖の祟りだ、などと呟くのは、
最高に不遜で厚かましいことであろう。
災害については、
古代も現代も、さして違わない。
もちろん、防災といって、
少しでも害を食い止める努力はある。
が、しょせん人間の力は、
自然に比べてあまりにも小さい。
害をなくすことは、とうていできない。
大地震がこれから起きれば、
何万人の死者が出る、という計算もある。
そんな計算が当たるのかどうかさえ、誰にも分からない。
少なくとも、
危険と分かっていることは、しないことだ。
せめて、「これくらいいいだろう」と甘く見ないことだ。
自分の不注意で害を大きくすることは、ままあることだ。
原発の問題も、要するにそういうことなのだ。
都合良く、自然のせいに全部をすることはできない。