命の大切さを訴えることがわずかの効果もない、とは言わない。
だが、そんなことでなんとかなるのであれば、
この国はキリスト教徒でいっぱいになっている。
自分に罪があるなど、誰も考えようとしない。
自分がいじめているなどという意識がないから、広まるのだ。
教育機関に、そういう良心の呵責というものが死滅している以上、
命の大切さなどというお題目が、何の効果をもつものか。
大切にしていないから、一連の発言が世間の怒りを買っているのである。
 
わずかな意地悪や小さないじめも
人の成長に善く影響することはあるだろう。
だからといっていじめを認めるのではないけれども、
人は無菌室で育つのが健康なのではない。
人との衝突から、学ぶことはたくさんあり、
小さなトラブルを経験した上で、人は成長していく面が確かにある。
 
いじめの程度にもよるものだが、
小さな怪我がからだを強くする可能性はある。
ただ、致命傷はまずい。
致命傷を食い止める手段を、まず考える必要がある。
細菌の繁殖を抑えるのに抗生剤を用いるとか、
切開して病巣をとるとかいった手段が、医療では役立つ。
この治療という観点において、
現行の教育委員会や教育長などの制度が、
それを全く果たしていないどころか、
却って病気を悪化させる作用に加担している点が、
致死の原因となっていることに気づくべきである。
 
健康に気をつけましょう。
からだを大事にしましょう。
こんな呼びかけで医療がうまくいくならば、
こんな楽なことはない。
 
ちゃんと医者にかかるようにしなければならない。
医者は、患者にとり他人である。
医者が、友だちの患者に、痛そうだから
注射も手術もやめておきましょう、と医療を控えれば、
病気は悪化するものだろう。
しかし今の制度はそうなっている。
他人である第三者機関が、
教育組織を監視する必要がある。
教育委員会も、元来その理想はあったはずであるが、
もはや全然そんな機能は果たしていない。
 
この機能を果たしてから後に、
命を大切に、という呼びかけは、
それは有効に働く可能性が広がると私は考えている。
つまりは、順番が違うのだ。