七夕って、いつですか。
受験勉強をしている小六の子が尋ねた。
 
「しちせき」という読み方を知らない、
という意味ではなかった。
「たなばた」が何日か、知らないというのだ。
 
行事に関して
近年、関心が薄れているのは間違いない。
国民の祝日は、学校が休みでレジャーの日、
という程度しか知らず、
何々の日、という認識が殆どない。
クラスで知るものが一人、二人、ということもよくある。
勤労感謝の日や憲法記念日など、
子どもにあまり関係がなさそうなものはもう誰も知らない場合もある。
 
私の子どもの頃には、
そういう説明を教師がすることが当然で、
「ああ、もう分かっているよ」と言いたくなるくらい、
毎年説明が繰り返されていた。
また、幼稚園ではそのたびに工作をしたり絵を描いたりしたし、
小学校でもそれに因んだ学習や考察もあった。
 
とにもかくにも、
「ポピュラー」とも言えるような事態だった。
誰もが共通に知る話題があったのだ。
テレビドラマであったり、バラエティであったりもするが、
アイドルにしても、誰もが一応知るレベルの話題があった。
 
価値観の多様化などというカッコイイ言葉がはびこり、
みんなと同じことを知る必要がなくなってから、
そうした共通項がなくなっていった。
祝日についての無知も、その流れかもしれない。
でもねぇ、などと言い始めると、
別に知らなくても生きていけるじゃん、でおしまいだろう。
 
共通項というものは、
何か一つの色で染め上げていくように思われるかもしれないが、
実はその逆である。
共通の議論できる基盤があるからこそ、
対話があり、コミュニケーションが発生する。
交流が生まれ、そのときに違いが際立つ。
各人がばらばらでいすぎるときこそ、
○○は○○に決まっているじゃないか、と持ち出されたとき、
全員がそれに流れていく危険をもつ。
 
人の世界の話だ。
何の制度をどのようにやっても、
完全というわけにはゆかない。
どう選択しても、不都合は遺り、まずいことは起こる。
だが、人間はモナドだ、などといきがるまでもなく、
言葉が通じないというのは、
言葉が不要だというような空気につながっていく。
もはや言論も思考も、無価値にされていくとき、
歴史は幾度も、悲惨な結果を生み出してきたのであるが、
そうしたことを超越論的に指摘する声は
あといくらか強くなってもよさそうに思う。