キリスト教は、
その中から見ないと、分からない。
イエスとの出会いからその信仰は始まるのであり、
出会わずして、聖書の意味は感覚できない。
 
もちろんのこと、
英語がキリスト教なのではない。
「イエス」は間違いだ、「ジーザス」が正しい、と
思う人がいたとしたら、お笑い種である。
 
国際語としての道具たる英語というものは確かにある。
むしろ、ネイティヴよりその国際語のほうが、
世界で互いに通じるというのも本当であろう。
とりあえず共通語があれば日本中誰とでも話ができるようなものである。
しかし、方言の中に豊かな人の心や受け継いできた伝統があるように、
語学の醍醐味は、国際共通語の英語に探すわけにはゆかない。
 
国際化の意識が、
キリスト教への関心に向かわせているのは、
それはそれでよいことだ。
日本の教会に来れば、
国際化が可能だなどとは決して言わないが、
たとえば信仰という心の深い部分で、いや、
その人の生きる基盤たるものの部分で、
どこの国の人とでも、通じ合うものがあることは
確実に分かる。
 
聖書という共通のテクストがある。
国際化とか国際精神とかいうものの重要性を説きながら、
聖書を読んだことがない、あるいは
聖書が何を言っているかを知らない、ということがあれば、
それは恥ずかしいことだ、とは言えないだろうか。