ジャパニーズスマイルというのがある。
困ったときや悲しいときにも
笑みを浮かべるというのだ。
へらへら何を考えているか分からないとか、
素直に感情を出せないのだとか、
悪口のように言われることもあった。
が、他方、震災の地において
笑みさえ浮かべて秩序正しく動く人に、
世界が驚嘆したという面もあったと思われる。
 
だが、私が気になるのが、
間違いを指摘されて叱られているときに、
笑みを浮かべる子どものことだ。
 
「ああ、またこいつ怒ってやがんな。
 まあ、言わしといてやるか。
 さからうと面倒だし」
そんなふうに、相手からは見える。
「オレは悪くないんだ。
 こいつの勘違いだ」
要するに、
自分が悪かった、というふうには思っていない。
 
悔しい顔、というのはある。
つまり、自分にも言い分がある、というときに
悔しい顔をすることがあるのだろうが、
それには実は、自分の至らなさはまず認めており、
それでもなお、理由や状況があるのだ、
ただそれを今ことさらに説明できない、というもどかしさ、
それが悔しさである。
 
だが、今言っているのはそういうことではない。
はなから、自分が悪いという可能性など、
みじんも感じていない。
完全に自分はテレビ画面の外にいるかのようであり、
自分には一切の責任などないと信じきっているのだ。
だから、自分を責める相手が一方的に悪い。
 
これについて「他罰的」という言葉があると知った。
つまり、何か自分が不都合な目に遭ったのは、
すべて他人が、あるいは他の環境が、悪いというのである。
それも、「あれのせいでもある」のではなく、
「すべてあれのせいだ」なのだ。
 
繰り返すが、
自分に一縷の責任も感じられないのだという。
 
昨今の若い世代によく見られる、
「新型うつ病」の傾向なのだそうだ。
会社に入り、上司から注意されると、
上司が、会社がけしからん、となり、
鬱病の診断をとって、
スカッとするために遊びに行くなどするのだと。
これは従来の鬱病とは違う。
 
これは先週考察した、
「自分は悪くない」の一現象であろう。
この傾向は、
今後増えることはあっても、
どうやら減ることはなさそうだ。
 
罪悪感という言葉は、
繊細なごく例外的な人々だけがもつものとなっている。
ここには、罪からの救いという経路はない。